2024.12.15日
弘法市で親しんでいる東寺ではありますが、今回は真面目に拝観させていただきました。
ご本尊の薬師三尊像がいらっしゃる金堂、空海が立体曼荼羅を実現した講堂、真言宗の研究室のような役割で建てられたといわれる観智院を拝観しました。
東寺 金堂の薬師三尊像

中は撮影できないので外の写真だけですが、出入り口はお堂の横にあります。
正面の1つ目の屋根のところに阿吽(あうん)の龍がいます。
この金堂が本堂とのことです。
文明18年(1486)の土一揆により焼失したあとは永らくそのままでしたが、慶長8年(1603)に豊臣秀頼によって再建され、現在に至ります。
中には金色の薬師三尊像が安置されています。これがとても大きくて見ごたえがあります。
薬師三尊像というと大体は、薬師如来が真ん中で、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩が配される形です。
日光菩薩は左脇侍(ひだりきょうじ)、月光菩薩を右脇侍(みぎきょうじ)と呼ばれますが、これは薬師如来から見た右左です。脇侍はわきじとも読みます。
薬師如来の須弥壇(しゅみだん 仏像を安置する台座で、もとは須弥山(しゅみせん)をかたどったもの)を十二神将が支えるような形で配されています。
十二神将は薬師如来の十二の大願を護持する十二人の守護神とされ、これらの像の頭にはそれぞれ十二支が載せられているそうですが、なかなか肉眼で判別は難しいです。
それにしても、どれもものすごく手の込んだ木像彫刻です。
安土桃山~江戸初期の代表的仏師である康正(こうしょう)が秀頼の命を受けて造像した名品です。
金堂(こんどう)というと本尊を安置する堂で伽藍(がらん)配置の中心をなす建物とされています。
金堂…仏教寺院(伽藍)を形成する中心的建造物で、その寺院の本尊を安置してある仏殿。インドでは香堂と呼ばれる。中国、日本では内部と金色に塗るのでこの名がある。平安時代以降は本堂とも呼ばれた。飛鳥(あすか)時代の法隆寺(西院)、奈良時代の唐招提寺、平安時代の当麻寺(たいまでら)、醍醐寺の各金堂は代表的遺構である。
(百科事典マイペディアより)
もともとは、仏教は釈迦の遺骨、つまり舎利(しゃり)を納めた塔が寺院の中心でした。
ところがインドの北西ガンダーラにおいて、ギリシヤ文明の影響を受けて釈迦の像を造り、その像を崇拝することが行われ始めた。大乗仏教はこの釈迦の像すなわち仏像の崇拝をとり入れた。その結果、仏像を納める金堂が、釈迦の舎利を納める塔とともにもっとも重要な建物になった。
(「古寺巡礼 京都 1 東寺」立体曼荼羅の寺(エッセイ) 梅原 猛 著 2006 より)
空海が嵯峨天皇より東寺を下賜されたときにはすでに金堂のなかにりっぱな薬師如来像があったそうです。
桓武天皇が平安京を築くに当たって、都の正門ともいうべき羅城門を挟んで東と西に国家鎮護の寺院を建てました。それが東寺と西寺のはじまりですが、長岡京時代に政治的な問題で犠牲となった早良親王を中心とする犠牲者たちの鎮魂の意味もあったといわれています。
空海は、このような顕教による怨霊の鎮魂では不十分であり、密教によってのみ怨霊は鎮魂されるべきものであると考えた。それで空海は、講堂を真言密教思想の表現の場所すなわち第二の金堂にしたのである。
(「古寺巡礼 京都 1 東寺」立体曼荼羅の寺(エッセイ) 梅原 猛 著 2006 より)
ということで、次はその講堂です。
東寺 講堂の立体曼荼羅
もともと官寺(かんじ)として東西それぞれを鎮護するために建てられた東寺と西寺でしたが、西寺は衰退、東寺も金堂ができたもののなかなか伽藍の造営が進まなかったとのこと。
そんななかで東寺は823年(弘仁14年)に嵯峨天皇から空海へ託されました。
(編集中)


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