三宝院(さんぼういん)は修験道当山派の醍醐寺塔頭寺院。永久(えいきゅう)3年(1115)に醍醐寺第14世座主 勝覚(しょうがく)により創建。歴代の醍醐寺座主の居住する本坊でもあった。堂宇や寺宝の多くは国宝や重要文化財に指定され、庭園は豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し自ら設計したと伝えられ、国の特別史跡・特別名勝となっている。なかでも藤戸石(ふじとのいし)と呼ばれる大きな石は名だたる武将に受け継がれてきたものとして有名。庭に面する表書院(国宝)は書院造ながら寝殿造の様式も取り入れられている。奥宸殿(おくしんでん 重要文化財)の「醍醐棚(だいごだな)」は天下の三大名棚のひとつとされる。本殿(重要文化財)には鎌倉期の名仏師 快慶作の弥勒菩薩座像が本尊として祀られる。
醍醐寺 三宝院 見て楽しい石づくしの庭

慶長3年(1598)に「醍醐の花見」としてのちに有名となった日本一といわれる花見の宴を催すに当り、豊臣秀吉が荒廃していた三宝院の復興を手掛け、この庭園については自ら設計をして、石の配置ひとつひとつも指示していたとされます。
作庭は石組みの名手 賢庭(けんてい)らによって秀吉没後も続けられ、27年かけて完成されたといわれています。

池泉式庭園(ちせんしきていえん)でありながら、枯山水*(かれさんすい)も取り入れた面白い作庭となっています。
*枯山水 池や流水を使わず石と砂で山水の風景を表現する庭園形式で、室町時代に伝わった宋・明の水墨画の影響により、禅宗寺院で発達した。
賀茂の三石は見どころのひとつで、左の石は賀茂川の流れの速いさまを、中央の石は川の淀んだ状態を、右の石は川の流れが砕け散るところを表しているとされます。
醍醐寺 三宝院 歴代の名将が所有した藤戸石(ふじとのいし ふじといし)

池の向こう岸にひときわ高さの目立つ石があり、これが藤戸石です。両脇の石と合わせて阿弥陀三尊を表しているといわれます。
もともとは岡山県倉敷市の藤戸という地域の海の中にあったものです。
源平の争いの時代、西へと逃れる平氏を追討する源範頼(みなもとのよりのり)は、水軍を持ち海上の戦いに長けた平氏を責めるのに苦心していました。
平氏側の将として指揮を執っていた平行盛(たいらのゆきもり)は、吉備の児島(現在の岡山県吉備の児島半島)という離れ島の篝地蔵(かがりじぞう)に本陣を置いていました。
水軍のない源氏方の武将 佐々木盛綱(ささきもりつな)は、平氏軍を攻め落とすためになんとかして児島へ渡りたいと考えていたところ、ある若い漁夫から、海峡が浅瀬になることを聞きます。
浅瀬になる目印になるのが海から頭を出すようにして立っていた大岩で、当地では浮洲岩(うきすいわ)と呼ばれていました。
元暦(げんりゃく)元年(1184年)12月7日、盛綱はこの浮洲岩の頭の出しようで浅瀬になる頃を見極め、騎馬を渡らせて一気に平氏を追い落としました。
その後、平氏は屋島の戦いでも敗れ、壇ノ浦の戦いで滅亡することとなりました。
なお、源氏の勝利のきっかけとなった藤戸の戦いでは、浅瀬になることを知らせた漁夫が口封じのために盛綱によって殺されていたことが平家物語の「藤戸」という謡曲で語り継がれています。
あらすじとしては、一人の老婆が盛綱の前に現れ、我が子を殺したと責めるところからはじまります。盛綱ははじめは白を切っていましたが、再三老婆に責め立てられて自らの過ちを認め、深く悔悟し、漁夫を弔うために藤戸の海辺にて管弦講を行います。すると漁夫の亡霊が現れ、恨みの言葉とともに殺された場面を再現しますが、法華経の功徳によって怨念は晴れ、成仏したというお話です。
時代は飛びまして、室町幕府3代将軍 足利義満はこの話を聞き、藤戸にある浮洲岩が勝利を導く名石だとして取り上げさせ、金閣寺へと運び込みました。
その後、8代将軍 義政(よしまさ)の時代には銀閣寺に移り、12代将軍 義晴(よしはる)は細川高国(ほそかわ たかくに)に譲って細川家屋敷に運ばれます。
織田信長はこれを15代将軍 義昭(よしあき)の居城となる二条城へと移します。
信長亡きあとに引き継いだのが豊臣秀吉で、一時聚楽第(じゅらくだい)に置いていましたが、これを三宝院に運び込ませて今に至ることとなります。
信長が藤戸石を運ばせたときの記録によれば、人夫3,000人を自ら指揮し、笛や太鼓ではやし立てながら大騒ぎで石を引かせたとあるので、大変な重労働だったとうかがい知れます。
醍醐寺 三宝院 表書院や奥宸殿など

表書院は上段・中段・下段の間と三室が並んでいてとても広いです。
上段と中段の間の襖絵は長谷川等伯(はせがわとうはく)*一派によるものとされ、下段の間は江戸中期に活躍した狩野派の一派 鶴澤派の石田幽汀*(いしだゆうてい)の作です。
*長谷川等伯 桃山時代の画家で日本独自の水墨画様式を確立。狩野派に並ぶ長谷川派を形成。
*石田幽汀 江戸中期の画家で円山応挙の師。写実性の強い装飾性が特色。

奥宸殿は江戸初期に建てられたもので、上座の間には書院造らしく帳台構*(ちょうだいがまえ)や付書院*(つけしょいん)、床の間を備え、違い棚は通称「醍醐棚(だいごだな)」と呼ばれ、修学院離宮の「霞棚(かすみだな)」、桂離宮の「桂棚(かつらだな)」とともに「天下の三大名棚」と称されます。

醍醐寺 三宝院 本堂 快慶(かいけい)作の本尊 弥勒菩薩坐像が美しい

本堂には鎌倉時代の大仏師 快慶*(かいけい)作の木像 弥勒菩薩坐像が本尊として安置されています。
*快慶 運慶と快慶
像の高さは約110cmでヒノキの寄木造(よせぎづくり)、金泥が施されていて、遠目には金属製の仏像のようにも見える重厚な質感をかもしだしています。
両手で五輪塔を持ち、光背(こうはい)にはいくつもの化仏(けぶつ)がおわします。
穏やかな雰囲気のなかにも厳格さが感じられ、何度でも拝みに来たくなるような美しい仏様です。
弥勒菩薩の右には弘法大師 空海の坐像、左には醍醐寺開祖の理源大師 聖宝(しょうぼう)の坐像が祀られています。
本尊が弥勒菩薩であることから、本堂を弥勒堂とも呼びます。また本堂裏に護摩壇があることから護摩堂とも。

堂の脇には徳利(とっくり)や盃を模した形の苔と白砂だけで表した「酒づくしの庭」があり、目を楽しませてくれます。
醍醐寺 三宝院 そのほかの見どころ
枕流亭(ちんりゅうてい) 秀吉好みの茶室

枕流亭は上段の間・中段の間・水屋の間から構成されます。頭を下げて入るにじり口が一般的ですが、かがまなくても入れる貴人口があるのが特徴です。棕櫚(しゅろ)や栗といっためずらしい木材が使われているとのこと。
藤戸石とともに秀吉が聚楽第から移してきたものとされます。
純浄観(じゅんじょうかん) 秀吉が花見をしたときの建物を移築

茅葺(かやぶき)屋根の純浄観(じゅんじょうかん)は、「醍醐の花見」で醍醐山中腹の槍山(やりやま)に花見御殿として建てた八つの建物のうち最も大きいひとつを移築したものとされます。

襖絵は平成に入って浜田泰介画伯が描いたもので、桜と紅葉があります。
国宝 唐門(からもん)

唐門は「醍醐の花見」の翌年に造られました。
表と裏に大きな菊と五七桐の紋が二つずつ彫られ、金箔が施されています。
朝廷からの勅使を迎えるときにだけ開かれる勅使門としての風格あるものとなっています。
五七桐は豊臣が朝廷から賜った紋でもあるので関係が想像されますが、両側の五つの花の部分が左右に開いたような形となっているところが特徴的です。

檜皮葺の*平唐門で両側の妻の部分に唐破風がついたものとなっています。
*平唐門と向唐門(ひらからもん むかいからもん) 平唐門は唐破風が両側にあるもの。前後にあるものは向唐門。
平成22年(2010)に解体修理され、黒漆地に金箔も張りなおされてとても見栄えよくなりました。


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