臨済宗天龍寺派の大本山で世界文化遺産に登録。足利尊氏(あしかが たかうじ)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の菩提を弔うために開創。暦応(れきおう)2年(1339)に夢窓疎石(むそうそせき)を開山として迎え、暦応資聖禅寺(れきおうしせいぜんじ)と名付けたが、暦応4年(1341)に天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と改めた。これまで八回の大火に見舞われ、現在の堂宇のほとんどは明治期に再建されたもの。
寺名 霊亀山 天龍資聖禅寺(れいきざん てんりゅうしせいぜんじ)
宗派 臨済宗(りんざいしゅう)天龍寺派 大本山
山号 霊亀山
所在 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
本尊 釈迦三尊像(釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩)
開山 夢窓疎石(むそうそせき)
開基 足利尊氏(あしかがたかうじ)
創建 暦応(れきおう)2年(1339年)
天龍寺のはじまり

暦応2年(1339)創建としていますが、この年の八月に後醍醐天皇が亡くなり、菩提を弔うためとして造営が始まった年ということになります。
後醍醐天皇の霊廟が完成したのは約5年後の康永(こうえい)3年(1344)で、開堂法会が行われたのは翌年でした。
造営は亀山殿(かめやまどの)と呼ばれる、嵐山や亀山公園を含む嵯峨野一帯の地に行われました。亀山殿は後嵯峨天皇が仙洞御所として営み、次の亀山天皇に引き継がれたところです。天龍寺はそんな広大な土地に造られましたが、江戸末期、禁門の変で長州軍が陣を敷いたことから幕府軍の攻撃を受けて伽藍のほとんどを焼失、その後明治政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)による上地や売却が相次ぎ、現在の天龍寺境内はかつての1割程度にまで縮小することとなりました。
話を戻して夢窓禅師と足利尊氏・直義(ただよし)の兄弟との話がまとまり、光厳(こうげん)上皇が新しい禅寺の開山を夢窓に命じました。
このとき上皇は新寺を「霊亀山暦応資聖禅寺」としましたが、「暦応」という年号を入れるのはかなり上位の寺に天皇が名付けるというもののようで、延暦寺など先に年号を寺名としている勢力から激しい反対を受けました。
それで「霊亀山天龍資聖禅寺」に変更されたとのことですが、なぜ「天龍」かといえば、足利直義が夢で大堰川(おおいがわ)から大きな金龍が天に昇るのを見たという説と、中国にある天龍山にちなんで名付けたとの説の二通りがあるそうです。
天龍寺 大方丈・小方丈・多宝殿

受付のある庫裏を入ると、小方丈・大方丈へと中でつながっているので自由に行き来できます。また小方丈から庭に沿って伸びる長い廊下を渡って多宝殿にも行けます。
大方丈・小方丈から曹源池(そうげんち)のある庭園を眺めるのが格別で、特に紅葉の時季はおすすめです。曹源池は特別名勝です。
天龍寺の伽藍は度重なる火災に遭っていて、そのたびに再建されてきました。

現在の大方丈は明治32年(1899)、小方丈は大正13年(1924)に再興されたものです。遠いので見にくいのですが、大方丈に安置される釈迦如来座像は難を逃れてきたのでもとのまま残っています。制作は天龍寺創建よりはるかに前の平安時代と見られています。

廊下を渡って多宝殿へ。案内札には、「後醍醐天皇聖廟多寶殿」とあります。多宝殿は昭和9年(1934)に再建されたものとなり、銅板葺きです。
後醍醐天皇の木像が安置されていますが、制作年ははっきりしないそうです。
天龍寺 曹源池(そうげんち)

世界文化遺産でもあり特別名勝にも指定されているこの庭は夢窓国師の作庭です。
後ろの山々を借景にしているので、広がりのある優美な空間となっています。
案内札によれば、国師が池の泥をあげたとき、池中から「曹源一滴*」と記した石碑が現れたことから曹源池と名付けられた、とあります。
*曹源一滴水 禅宗用語。正統なる禅のことをいう。中国禅は達磨を初祖として伝承されたが、第六祖の慧能(えのう)によって新たな展開を見た。日本の禅はこの慧能の流れをくむものとされる。慧能は曹渓山宝林寺に住んでいたところから、曹渓の六祖を源泉として展開した正伝の仏法を一滴の水と比喩的に表現している。(ブリタニカ国際大百科事典)
また国師は詩文にも次のように残しています。
曹源は涸れず直に今にいたり
一滴流通して広く且つ深し
詳しい解説が見当たらなかったのですが、禅の教えは涸れることなく今に至り、これからも広く深くひろまっていくというような意味でしょうか。
「禅」は現代にも通じる教えであり、いまや世界が注目しています。国師がどこまで予見していたかはわかりませんが、今、国内外から多くの人が連日ここ天龍寺を訪れ、それぞれがこの庭園に何かを見出しているという現実を思えば、夢窓礎石という人は改めて偉大なお方だなぁと思わずにいられません。
天龍寺船(てんりゅうじぶね)とは

天龍寺の建設には莫大な費用がかかります。負担するのは足利尊氏の幕府ですが、なんとかして資金を調達する必要がありました。
そこでまた登場するのが夢窓国師でした。
国師は貿易船を出して物資を売りさばき、莫大な利益を得るという方法、また貿易船を使って品を売るということを発案し、幕府が動きました。
貿易の収益を寺院の造営に充てるということは、建長寺や住吉社などでも例があるようにそれまでも頻繁に行われていました。
康永(こうえい)元年(1342)、天龍寺の造営が開始されてから約3年目に天龍寺船が元へと発遣されました。翌年には無事戻ったとされていますが、売った品々で百倍の利益を得たと「太平記」に記されているとのことです。
天龍寺船での交易はこの一回のことを指すようです。渡航には危険も伴いますが、成否に関わらず船主は5000貫文*を幕府へ納めるというしくみもあったようです。幕府公認ですので、そのかわりに安全を確保するということもなされたとのこと。
*一貫文は現在の10~15万とされるので5億円以上? 貿易ではさらにこれを大きく上回る収益があったのだと想像できる。
三代将軍の足利義満の時代には明との間で勘合貿易が開始されますが、これは天龍寺船での貿易をもとに始まったと見られています。
<参考文献>
・「古寺巡礼 京都9 天龍寺」 平田 精耕 玄侑 宗久 著 ㈱淡交社 2007
・「夢窓国師の風光」 中村 文峰 井上 博道 著 ㈱春秋社 1998


コメント