龍安寺(りょうあんじ)石庭には大きく二つの謎がある。誰が作ったのか。その意図は?-京都 右京区-

龍安寺

作庭者は誰なのか。

これまでにあがった作庭者の候補

一般には、相阿弥(そうあみ)という室町時代の絵師によるものと考えられてきたようですが、全く確証はないそうです。

ただ、相阿弥は足利 義政に仕えて山水画を描くほか、作庭にも造詣が深かったとされています。

また、開基の細川 勝元自身も候補に挙がります。細川家は代々作庭を趣味とされていて、実際に勝元作と伝承される庭は多いそうです。

また、勝元の子 政元も有力な候補です。応仁の乱で兵火を受け、土塀は残ったとされるものの庭は再興されたと推定されています。

勝元は再建された方丈を見る前に没してしまいますが、再興を完成させたのは政元であり、石庭もこのときに造られたとする説もあります。

そのほか、開山の義天 玄詔とする説や、雪舟を師としていた子建 寿寅(しけん じゅいん)、僧の鉄船 宗煕(てっせん そうき)、茶人の金森 宗和(かなもり そうわ)や小堀 遠州(こぼり えんしゅう)などの説があります。

「都名所図会(みやこめいしょずえ)」に記載された解説

安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」には、竹原 春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)の挿絵とともに秋里 籬島(あきさと りとう)の解説が載っています。

龍安寺
方丈
林泉(りんせん 林や泉を配して造った庭園)

むかし 細川勝元(ほそかわかつもと)
ここに別業(べつぎょう)を
かまへ 住せらるゝ時
書院より 毎朝
男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)を
遥拝(ようはい)せんが 為に
途中に樹を植えず
奇巖(きがん)ばかりにて
風光(ふうこう)を 催す。
これを 相阿弥(そうあみ)の
作りし也。 名づけて
虎の子わたし と
いふ。 洛北名庭(らくほくめいてい)の
第一なり。 後年
塀の外の 古松(こしょう)
高く 老いて 昔の
風景麁(そ おおまかな)となる。
其の上 近年
方丈 回禄(かいろく 火災にあう)し
ぬれば むかしを
情を慕われ侍る(はべる)。

一庭(いってい)の空曠(こう ひろびろとしてなにもない)
白砂 平(たいらか)なり
頑石(がんせき)誰か 鋪き(しき 敷き)
形勢の成るを 
宛も(あたかも) 似たり 昔時(せきじ むかし)
溪(けい)を 渡るの虎
分銜(ふんかん わけてくわえて)す 両子(りょうし)の
波に 泛びて(うかびて) 行くに。
  
  皆川 愿*(みながわ げん)

*皆川 淇園 みながわ きえん 江戸中期の京都の儒学者。名は愿(げん)。

秋里 籬島がなぜこの石庭を「林泉」と表現したのかは議論の対象となっていますが、秋里はこの石庭から林や泉を想像したのかもしれません。

枯山水はこうあるべきという書き方ではなく、細川勝元が男山八幡宮を拝するのに邪魔だから草木を生やさなかったとしていて、一般人にはわかりやすい解説です。

また、絵では人が庭に入っているようです。

江戸時代には自由に入れたのかどうかはわかりません。

背景の土塀が普通の築地塀になっているので、挿絵はよく観察せずに書かれたのかもしれません。

ヤーツク
ヤーツク

やはりちょっと空間があいているところは、なにかの催しなどのために施主が空けておいてくれなんて言ったもんだから、石の配置をずらしたりしただけ? だったりして。

石に残る刻印

石庭を正面から見た場合の一番奥の横に長い石(二群の石 ↓下記参照)には刻印があり、「小太郎・□二郎」と彫られています。□の文字は「清」と推定されていますが、「末」や「彦」などと意見は分かれていますが、いずれにしてもこれは作者の名ではなく、石職人の名だろうとされています。

ただ、これらの庭を世話する人々は山水河原者(さんすいかわらもの)と呼ばれ、優れた庭師も多かったとされます。

作庭の意図は何なのか。6つの推理をピックアップ

図のように、大小の石の集まりで大きく五群に分けられて分析されているようです。

枯山水なので、石のほかは白砂だけを敷き詰めてつくられた庭です。

この石の配置や構図などから、作庭の意図についてこれまでおよそ五十以上の推理がされているとのこと。そのなかから有名なものを6つ取り上げてご紹介します。

虎の子渡し 説

虎が三頭の子を産むと、一頭は豹(ひょう)で他の子虎を食べてしまうので、川を渡るときには、親はまず豹の子を渡し、次に別の子を渡して引き返す際には再び豹を渡し、もう一頭の子虎を渡してから引き返して豹を渡したというお話に基づいたものです。

大きな石が親で小さな石が子と捉えて考えるようですが、どうも合わないところがあるようで、有識者の支持はあまり得られていないようです。

ただ、広辞苑には、三番目のところで「京都竜安寺の石庭の異称」と説明されているくらい有名な説です。

七五三 説

1群から順に石の数を数えると、5→2→3→2→3となっており、1・2群で七、3・4群で五、5群の三だろうというわけです。

七五三には、祝儀に使う数としてのめでたい数字とか子供の成長を祝って氏神様などにお参りするといった意味があります。

これも有名な説ですが、足し合わさないとだめな点で無理があるとも言われています。

心字(しんじ)の象形 説

1群を左の点2群と5群は曲線でつないで、3群・4群にそれぞれ点を打つと、「心」の字になるというもの。

どうでしょうか。2群と5群をつないで、というところがちょっと無理がありそうです。

五智五仏(ごちごぶつ)

密教大日如来が備え持つ五つの智慧がそのまま五仏に配されたもので、大日如来阿閦(あしゅく)如来・宝生(ほうしょう)如来・阿弥陀(あみだ)如来・不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の五智如来(ごちにょらい)を表すとされた説。

お寺らしい説でありますが、禅寺で密教というのはどうなんでしょうか。

石隠し 説

石庭には大小合わせて15の石が配されています。

ただ、方丈のどこに立っても石の後ろに隠れてしまう石があり、最大でも14の石しか見ることはできないようになっています。

これを意図的にされたものだとする説ですが、そうだとしても「なぜ」というのはつきまとうような気がします。

遠近法 説

遠近法は、遠小近大(えんしょうきんだい)といって、つまり遠いところのものを実際より小さく、近いものを実際より大きくすることによって、より奥行きが深く見えるようにしてつくったとする説です。

写真では、3・4・5群が見えますが、5群の大石がもっとも大きく、奥は少し低かったり小さかったりしますので、遠近法は使われていると考えられています。

また、方丈から石庭を眺めて右側の油土塀左側の漆喰塗の築地塀はともに、奥へいくほど高さが低くなっています。

これも奥行きを深く見せるための工夫です。

遠近法は基本的な技法として使われているとは思われますが、そもそも配置や構図は何を表しているのか。

ヤーツク
ヤーツク

正直、最初に見たときに、なぜ手前に空間があって、石はなぜそんな中途半端なところに置いてあるのかって思ってしまいました。

遠近法だけでは説明しきれていない気がします。

謎は謎のままに

写真はフレア加工したものです

作家の井上 靖(いのうえ やすし)さんはこう書いています。

むかし、白い砂の上に十四個*の石を運び、きびしい布石を考えた人間があった。老人か若い庭師か、その人の生活も人となりも知らない。だが、草を樹を苔を否定し、冷たい石のおもてばかり見つめて立った、ああその落莫たる精神。ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰が言い始めたのであろう。人はいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りにも小さきを思わされ、慰められ、暖められ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ。

「井上靖全詩集」 *実際は15個だが14個しか見えないことを暗に示している。

ヤーツク
ヤーツク

謎は謎のままだからこそ、自分の考えや想像の及ばない自然の造形というものがあると信じることができ、人は素直になって「慰められ、暖められ」るのかなぁと思いました。

<参考文献>
・「古寺巡礼京都 33 龍安寺」淡交社 2009
・「謎深き庭 龍安寺石庭」細野 透 淡交社 2015

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