能勢妙見山(のせみょうけんざん)*基本* 日蓮宗霊山とその周辺について。‐大阪 豊能郡‐

能勢妙見山

2025.3.29

もともとは妙見信仰に篤い武家 能勢氏の拠点だったところで、のちに日蓮宗のお寺となっていきます。その由来もふくめ、まとめます。

また、この地区全体の風景がとても美しく、その魅力についても触れたいと思います。

寺名  無漏山眞如寺境外(むろさんしんにょじけいがい)仏堂能勢妙見山
    通称「能勢妙見山」
宗派  日蓮宗
山号  無漏山
所在  大阪府豊能郡能勢町野間中661
本尊  妙見菩薩
開基  能勢 頼次(のせ よりつぐ)
創建  慶長8年(1603)

能勢妙見山 登山か車で登ります。登山おすすめです。

能勢妙見山へは、いくつもの登山コースがあります。

もちろん車でも行けますが、天気のいい日なら、自然豊かな山道を歩く登山コースがおすすめです。

標高は660mで歩く高低差も約600m。今回私が辿ったのは、上りを上杉尾根コース、下りを初谷渓谷コースです。

歩いた距離は約11km。まあまあの登山ですので、しっかり装備をして臨んでください。

登山の記録は以下を参照。

妙見山周回コース / ヤーツクさんの妙見山(大阪府豊能郡豊能町)の活動データ | YAMAP / ヤマップ

能勢妙見山 能勢氏の歴史について

開基とされる能勢 頼次のルーツは、清和源氏(せいわげんじ)系で平安中期の武将 源 満仲(みなもとのみつなか)が摂津国多田に住んで多田源氏(ただげんじ)を称するようになったことへと遡ります。多田 満仲(ただのみつなか ただのまんじゅう)とも呼ばれます。

この満仲は既に厚い妙見信仰を持っていて、能勢家において代々引き継がれました。

満仲の孫にあたる源 頼国(みなもとのよりくに)が能勢の地へ移住、以降は能勢氏を名乗ったとのこと。平安時代長元年間1028年~1037年頃のこととされています。
※但し、能勢氏の起源については諸説あります。

その後、織田 信長の時代。第22代の能勢 頼通(のせ よりみち)は、それまで足利将軍家に仕えていたこともあり、信長に従いませんでした。そのため、信長の命を受けた塩川氏に謀殺され、弟の能勢 頼次も戦いましたが、居城を妙見山に移します。

天正10年(1582)本能寺の変では明智 光秀に加勢したために羽柴 秀吉に攻められ、備前の国へと落ち延びます。

そこで身を寄せたのが日蓮宗 妙勝寺で、以降約20年にわたり復活を願いながら過ごします。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは徳川方に協力し、その功によってようやく旧領、つまり能勢の地に所領を回復することができました。

このことで頼次は日蓮宗への信仰を厚くしたとされ、日蓮宗総本山 身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ 山梨県)から日乾上人(にっけんしょうにん)を招き、広大な土地を寄進して真如寺(しんにょじ)を造営、そこに代々伝わる妙見菩薩像を安置しました。

日乾上人はこの妙見菩薩を法華勧請(かんじょう 神仏の分身・分霊を他の地に移して祀る)して法華経の守護神としました。さらに自ら彫刻し、武運長久を願って武具甲冑を身につけ剣を手にした妙見大菩薩をつくり、妙見山山頂に祀りました。

妙見山はそれまで為楽山(いらくさん)と呼ばれていましたが、このことから妙見山と称されました。

その後多くの信者が訪れるようになり、江戸時代には大変な賑わいとなったそうです。

そもそも妙見信仰とはどんなものか。

妙見菩薩を守護する8頭の神馬のひとつ

北極星」を神格化した妙見菩薩に対する信仰。(ブリタニカ)

妙見菩薩は日蓮宗のみならず、真言宗天台宗などの密教、神道にも取り入れられています。

妙見菩薩
国土を守り、災難を除き、長寿をもたらす神で、「北極星」としてこの世に現れるとされる。日本では眼病平癒、安産、良縁のためにこの菩薩を本尊として行う修法があり、密教ならびに日蓮宗で祭祀(さいし 祀ること)。北辰菩薩(ほくしんぼさつ)ともいわれる。(大辞泉・ブリタニカ)

北辰」というのは北極星の中国名でこう呼ばれています。

仏像や絵画には北極星をめぐる北斗七星が背景として加えられるために、妙見と北斗がしばしば混同されるとのこと。

北斗天帝を守る剣であるという伝説から、妙見は武運を守ると信じられ、平 将門加藤 清正など武将はこれを守り神とした。(ブリタニカ)

写真は妙見菩薩を守護する神馬で、境内に8頭あります。

北極星を守護する星として、北斗七星と輔星(ほせい そえぼし)の8つの星があるといわれており、それで神馬も8頭いるとのこと。

妙見信仰はいつ頃から始まったのか。

かなり古くからあったようです。

この信仰は元々、中央アジアの砂漠地帯を生活の場としていた遊牧民や、大陸の海浜地区に住み海上交通を生業としていた人々が信仰していた北極星や北斗七星の信仰が中国に伝わり、道教の北辰信仰や仏教の星宿信仰(せいしゅくしんこう 星や星座を信仰の対象とするもの)などと習合して成立したものである。成立は西暦三世紀前後と考えられている。
 (「千葉氏と妙見信仰」 丸井 敬司 岩田書院 2013)

日本には、およそ仏教や大陸の先進文化とともに6~7世紀頃に伝来したと考えられています。

当初は大分県の国東半島(くにさきはんとう)や畿内渡来人などの間で信仰されていたものとされます。

奈良時代末期から平安時代初期には一般の大衆にも広がったようです。

また、「国土を守る…」といった役割を見てのことでしょうか、支配層にも浸透していたとも考えられています。

宝亀8年(777)光仁天皇(こうにんてんのう)が封戸(ふこ 律令制で貴族・社寺に棒禄として支給した戸)百烟(えん 戸の単位)を河内国石川郡の妙見寺へ施入されたことが、官撰史書における「妙見」という文字の所見であるところから、妙見信仰の上限を奈良の世の後葉(こうよう 後世)とするものもないではありません。また聖武天皇の妙見信仰が「妙見菩薩像一躯」の存在を今に伝える正倉院天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年(752)の文書によく知られるところであります。
 (「妙見信仰の史的考察」 中西 用康 相模書房 2008)

この中西氏は、さらに前の時代、聖徳太子のときにも妙見信仰が浸透していたと推察しています。

聖徳太子の十七条憲法の条文、第十四条の結びに、

其れ賢聖を得ずば、何を以ってか国を治めむ
(賢者・聖人が得られなければ、何によって国を治めることができるというのだろうか)

とあるのですが、「北辰妙見菩薩呪」というお経のなかにも、

「国に賢能あらば当に之を徴召すべく、賢を敬し聖を尊ぶこと父母を視るが如くすべし」

といった記述があり、国の治め方を教導するかのような記述だと指摘します。このことからこの経典が飛鳥の世にはすでに招来されていたと想像されるとしています。

能勢妙見山 境内の様子

まずは珍しいとされる子持ちの狛犬があったので撮りました。

境内は静かです。

とりあえず、山の三角点へ向かいます。

三角点のところには明治41年(1908)に建立された日清・日露戦争の戦没者慰霊塔があります。

また、見晴らしのいいところにこんな素敵な建物がありますが、これは信徒会館「星嶺」というもので一般の参詣者は入れないそうです。

この山門をぐぐりますが、ここがちょうど大阪府と兵庫県の境だそうです。

またまた珍しいポーズの狛犬さんがいたのでパチリ。

寛永4年(1627)鋳造の梵鐘も当然撞かせていただきました。

素敵な境内が見えてきます。この建物は比較的新しく、お守りなどを販売されています。

本殿の「開運殿(かいうんでん)」です。ここに開運の守護神である北辰妙見大菩薩が祀られています。

慶長10年(1605)に能勢 頼次により創建、明治28年(1895)に大改修されています。

こちらの狛犬さんも子持ちのようです。右は玉の部分が壊れているようです。なかなか迫力がありますね。

特に山のなかの神社やお寺って、なにか不思議な空間に迷い込んだような感覚があります。

ちょっとしたものが相当な歴史を乗り越えているので目に見えるものすべて珍しく感じます。

この経堂・絵馬堂も江戸時代 寛政8年(1797)にできたものだそう。

帰りに御朱印をもらいました。(写っているのは別の人です)

能勢妙見山 その他周辺

ここからまた降りていきます。初谷渓谷コースからの入り口がここです。表側にも鳥居がありますが、もともと神として妙見菩薩が祀られていて、神仏分離令のあともその名残として残っているそうです。

この木がブナかどうかはわかりませんが、妙見山にはまとまったブナ林があり、普通標高1,000m以上にあるそうですが、標高600m辺りにブナ林があるのは珍しく、貴重だそうです。

山椿やミツマタがきれいです。

初谷川がきれいです。

サワガニやアカモト(カワムツ)、アブラ、ゴロキン(ヨシノボリ)、ドタ(カジカ)、カワゲラ、カワニナなどの水生生物が多く生息しているとのこと。(ほとんど知らない生物ですが)

かつてはシマドジョウ、ウナギ、メダカなどもいたそうですが、1960年頃から姿を消したそう。

こんな洞穴が…。

解説にありましたが、これは「間歩(まぶ)」と呼ばれ、鉱石を採るために掘った穴だそうです。

豊能町吉川という地区は多田銀山の鉱脈にあるとのことで、多くの銀山(主に銅)がありました。

妙見山から初谷川にかけては、山師といわれるものたちが一攫千金を夢見て岩を掘るということがよくあったらしいのです。

やたらとおもしろい形の木が多いなと思ったら解説がありました。

これは「台場クヌギ」と呼ばれるもので、木の名前ではなくて木の状態のことを指す言葉だそうですが、いわゆる人工と自然がなした形と言えると思います。

里山は人によって作られた森であり、薪を採ったり落ち葉を肥料にしたりと、里の人々が利用するために手をかけてきました。

その代表的なものがクヌギの森であり、クヌギが生い茂ってくると一定の高さ(低いところ)で伐採しますが、萌芽更新(切ったところから芽が出ること)でまた再生していくそうです。

これを数十年数百年と繰り返すうちに、土台となる幹部分が太くなって残ってくるというものが台場クヌギと呼ばれるものだそう。

伐採することで陽が差し込んで山菜などが生えたり木の実を食べる動物が集まったりします。手をかけていくことは自然を守ることでもあるということですね。

一方でこんなことも書いてありました。

水害などを防ぐために堤防や石張り護岸を設けたりした結果、ウナギは海から帰れず、蛍は成長できず、多くの種類の小魚たちが姿を消したといいます。

木炭が使われなくなったことで里山に手をかけることも少なくなり、危機的な状態だとのこと。

豊能郡にはほかにもいろんな山もあり、自然が美しくのこっている風景がとても魅力的な場所です。ぜひ一度訪れてみてください。

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