鞍馬寺創建を伝える「鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)」からも、いろいろと歴史的な背景がわかるといいます。ここでは鞍馬寺の歴史的な変遷とその時代的背景について少し触れてみたいと思います。
登場人物のことについてはこちらもご参考ください。
なぜ藤原伊勢人(いせんど)は毘沙門天をお祀りしたのか。
鑑禎上人(がんちょうしょうにん)が毘沙門天をお祀りして鞍馬寺を開創したのち、藤原伊勢人が鞍馬山に登って毘沙門天を見つけます。
しかし伊勢人は本来は観世音を崇拝していたので悩みます。
ある夜、夢で「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」と告げられ、伽藍を整備してまず毘沙門天をお祀りしました。
ガイドブックによれば、次のように説明されています。
平安京遷都に前後して鞍馬山に寺を創建するには、私的な願いを満たす観世音ではなく、毘沙門天の北方守護の働き、つまり毘沙門天を平安京北部の鞍馬山にお祀りして王城鎮護を祈るという公的な役割づけが必要だったのです。(ガイドブック 「鞍馬山」より)
桓武天皇は平城京での弊害を考慮して平安京造営に当たっては私寺を禁止していました。
そんななかで鞍馬寺を建てるには、公的な理由が必要だったのだろうといわれています。
さて、観世音を信仰していたとありますが、飛鳥時代に伝わったともされる観音信仰は、奈良時代には頭と腕がたくさんある多面多臂(ためんたひ)の密教像も多くつくられて、とても盛んになりました。
*メモ* 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、観音菩薩とも。
・大乗仏教のなかで特に崇拝されている菩薩。民衆信仰においては現世利益が中心。
・人々の救いを求める声を聞くと直ちに救済にくる。
・救う相手の姿に応じて千変万化の相になる。
・勢至(せいし)菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍。
・聖(しょう)観音、千手、十一面、如意輪、准胝(または不空羂索)、馬頭の六観音のほか、「観音経」には三十三身を示現することを説く。(三十三観音霊場はその例)
(参考:ブリタニカ、マイペディア、デジタル大辞林等の各辞典)
官立の寺院にも取り入れられたほか、この頃には国の許可を得ずに勝手に僧になった「私度僧(しどそう)」もたくさんいて、山々に籠って様々な観音像を祀っていたそうです。
平安時代になっても観音信仰は盛んだった、という背景が伊勢人の逸話でわかると言えます。
峯延(ぶえん)・良忍(りょうにん)・重怡(じゅうい)の浄土信仰
峯延上人は東寺十禅師の一人と言いますから真言宗の僧のはずですが、晩年はひたすら極楽往生を願っていたといいます。
また良忍上人や重怡上人は弥陀宝号の念仏を唱え続けていましたので、いかに浄土思想が浸透していたかということがわかります。
平安後期から鎌倉時代にかけて流行した末法思想の影響で、鞍馬寺にも現世利益より来世の幸せを願う浄土信仰が入ってきたということです。
*メモ* 末法思想
・釈尊入滅後、年代がたつにつれ正しい教法が衰滅することを説いた思想。
・平安末期に、釈尊入滅を紀元前949年として正法1000年、像法1000年ののち1052年に末法を迎えるという説が広まる。
・唐のほうでは末法に相応するには浄土教しかないと説かれ、日本の源信、源空などもこれを受け、浄土思想を鼓吹した。
(参考:ブリタニカ、マイペディア、デジタル大辞林等の各辞典)
法然上人が浄土宗を開く前に、けっこう浄土思想が広まっていたんですね。
鞍馬寺の経塚(きょうづか)に見られる弥勒信仰
経塚というのは、仏教の経典などを土中に埋納した遺跡のことを指します。
鞍馬寺の境内や周辺にも多くの経塚が発見されています。
*メモ* 経塚
・経典を地中に埋納した場所のこと。営造は平安時代中期から近世において行われている。
・末法思想を背景に釈迦入滅後56億7000万年して弥勒菩薩が出現するときまで経典を残すことを目的とする。
・のちには極楽往生や現世利益を目的としてつくられるようになる。
・藤原道長が吉野の金峯山(きんぷせん)に築いた経塚(1007年)が最古の例とされる。
(参考:ブリタニカ、マイペディア、デジタル大辞林等の各辞典)
藤原道長は「弥勒の出世にあたり、自分は極楽からこの世に詣でて、弥勒の説く法華会を聴聞するが、そのとき、これらの経典が大地から自然にわきでて、集まった人々を随喜させてほしい」との願文を経筒に線彫しているようです。
埋経の理由は時代が下がるに従い、極楽往生、現世幸福など目的も多岐にわたって行われるようになったのですが、本来は、弥勒が出現するまで経典を保存しておくことでした。
弥勒を信仰しながらも、自分は極楽浄土へ行っているみたいなことで、浄土信仰も併せもっている点が興味深いですね。
この点については、鞍馬寺の重怡上人も注目される方の一人です。
現本堂があったところから出土した経塚のなかに、重怡がほか3人の僧とともに埋経した記録があるとのことです。これは願主である清原信俊が亡き父母の追善供養のために埋経を依頼したものを受けてのこととあるようですが、念仏を一心に唱えていた重怡が一方で熱心に弥勒を信仰していたことの証ととらえられているようです。
鞍馬寺の年中行事のなかに、5月中旬には経塚巡りという行事があるようです。ご興味のある方はぜひ参加してみてください。
<参考文献>
・「鞍馬寺と埋経」 難波田 徹 鞍馬弘教総本山鞍馬寺出版部 1986
・「鞍馬寺」 中野 玄三 中央公論美術出版 2003

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