鞍馬寺の起源などに関わるお話は不思議で神秘的なものが多いです。「鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)」の書が鞍馬寺に伝わっており、主としてこの書をもとに伝わっているものを紹介します。
開祖 鑑禎上人(がんちょうしょうにん)のお話
鑑禎さんはあの歴史で習った奈良時代に何度も来日しようとして失敗するうちに失明されたという鑑真(がんじん)のお弟子さんです。
ある夜、鑑禎さんは夢のなかで「山城国の北方に霊地がある」と告げられたので、訪ねていきました。

野宿をしていると、夢にひとりの僧があらわれて「東方の空に佳瑞(かずい めでたいこと)を示す」と告げられ、翌朝天をあおぐと朝日が峯にあたって不思議な光を放っていました。
その光のなかに白い馬が空中に留まる形でおりました。
鑑禎は白馬に導かれて山頂にたどりつきましたが、その夜、女形の鬼に襲われました。鬼の髪は夜叉のようで目は光り口から毒気を吐きます。
鑑禎は朽ち木のなかに逃げ込んで三宝(さんぽう)を念ずると、たちまち朽ち木が倒れて鬼を押しつぶしました。
翌朝見てみると、朽ち木だったと思われたものは毘沙門天でした。
鑑禎はここに草庵を建てて毘沙門天像を安置しました。
これが鞍馬寺の草創とされています。
藤原伊勢人(いせんど)のお話(第二の草創)
時は平安京の時代。藤原伊勢人というひとは官寺(かんじ)としての東寺、西寺を造る長官に任じられた方です。
伊勢人は心のうちには観音様を安置するための堂舎を建てたいと願っておりました。
ある日、夢のなかに「皇城の北崔嵬(さいかい 岩や石がごろごろしている山)の峰」を示されました。
さっそくその地へ赴くと、白髪の老翁があらわれ、「われは貴布弥(きふね)神なり」と名乗り、この地に伽藍を建てよと言いました。
伊勢人が乗ってきた白馬を放ってついていくと、毘沙門天を安置する草堂(鑑禎上人が建てたところ)に至りました。
ただ、伊勢人の願いは観音様を安置することです。すると、今度は夢に総角(あげまき 古代の少年の髪の結い方で髪を左右に分け、両耳の上に巻いて輪をつくる形)の天童があらわれ、「観音と毘沙門は本地同一である」と告げられました。
伊勢人は大きな堂舎を建てて毘沙門天を安置し、次いで千手観音を彫って毘沙門天の隣に安置しました。
ガイドブックによれば、この鞍を背に置いた白馬が聖地に導いたということから鞍馬寺と呼ぶようになったといいます。
中興の祖 峯延(ぶえん)上人のお話
ときは寛平(かんぴょう)年間(889~898)。東寺十禅師の一人に峯延上人という高僧がおられました。
峯延は修行のため鞍馬寺まで登り、氏人である峰直というひとと師壇(しだん 師僧と檀那。寺僧と檀家)の契りを結んで寺務を執るようになりました。
あるとき、峯延が護摩の修行をしていると大蛇があらわれて峯延を飲みこもうとしました。峯延は大威徳と毘沙門天の呪(じゅ 真言)によりこれを退治しました。
雌雄二匹のうち雄の蛇には今後本尊への供水(きょうすい)を絶やさぬことを誓わせてこれを閼伽井護法善神(あかいごほうぜんじん)として祀ったといわれます。

また、退治された大蛇は駆けつけた人夫五十人によって切られ、龍ヶ嶽に捨てられたといいます。
これが今でも毎年6月20日に行われる竹伐り会式(たけきりえしき)の起源だとされています。
重怡(じゅうい)上人 13年間の弥陀宝号を唱え続けたお話
平安末期、延暦寺の重怡上人が鞍馬寺に入ります。
重怡は阿弥陀像を安置してその前で毎日十二万遍も弥陀宝号を唱え続け、それは13年にも及んだとのことです。

また、重怡が六万遍もの弥陀宝号を書いて法輪に納め、「一転の南無阿弥陀仏、その功徳六万遍の称名に等し」としたことが、重怡がいたとされるお堂「転法輪堂」の名の由来です。
良忍(りょうにん)上人 神名帳(じんめいちょう)を授かったお話
もうひとりの平安末期の高僧で融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)の開祖として知られる良忍上人には、「古今著聞集(ここんこもんじゅう)」に次にようなお話が残っています。
良忍は大原に来迎院(らいごういん)を建てて念仏に終始していましたが、天治2年(1125)、鞍馬寺に参籠(さんろう)していたところ、良忍の唱導する融通念仏に、鞍馬寺の毘沙門天が多くの鬼神を引きつれて結縁する夢を見ました。
目が覚めると、毘沙門天と鬼神たちの名が書きつらねられた帳面が良忍の前に置いてあったそうです。

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