北野天満宮(きたのてんまんぐう)*基本* 学問の神様 全国約1万2千社の天満宮・天神社の総本社

北野天満宮

平安時代の公卿 菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊を鎮めるために御祭神として祀ったのが始まり。全国約1万2千社に及ぶ天満宮・天神社総本社学問・文芸の神として尊崇を集める。室町時代には連歌の中心地となり、豊臣秀吉の時代にはこの境内で北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)が開催される。「北野の天神さん」と親しまれ、毎月25日は道真公の誕生日である6月25日と薨去された2月25日に由来して縁日とされ、骨董や古民具などの店が並び多くの人でにぎわう。秀吉が外敵から守るための土塁「御土居(おどい)」の跡が遺る。2月から3月初旬には梅苑が公開され、春と秋はもみじが見ごろとなる。10月には「瑞饋祭(ずいきまつり)」が催され、また50年ごとの「大萬燈祭」やその間25年ごとの「半萬燈祭」では、その大祭に備えて御社殿の大規模な修造が行われる。

北野天満宮(きたのてんまんぐう)
御祭神 菅原道真(すがわらのみちざね)、中将殿(ちゅうじょうどの 道真の長男)、吉祥女(きっしょうじょ 道真夫人)
所在地  京都市上京区馬喰町
創建   天暦元年(947)
主な祭事 北野祭

北野天満宮 縁起

菅原道真は祖父の時代から知られる学問の家に生まれ、自身も幼い頃から詩才を発揮、三十代前半には文章博士*(もんじょうはかせ)となります。
 *文章博士 古代の官学である大学の運営に当たる大学寮の教官で詩文や歴史を教授した。

宇多天皇(うだてんのう)は、関白の藤原基経(ふじわらのもとつね)との対立もあったことから摂関を置かず、藤原時平(ふじわらのときひら)と道真を重用、のちに寛平の治(かんぴょうのち)と呼ばれる政治改革を行いました。

その後、この方針を受継いだ醍醐天皇(だいごてんのう)は、時平を左大臣、道真を右大臣に任命します。

しかし道真は時平と違い「寒門(かんもん 家柄が低く貧しい家)」出身だとして周りや人々からひどい嫉妬を受け、昌泰 ( しょうたい )4年(901)には時平らの策謀で大宰権帥(だざいのごんのそち 大宰府の権官(ごんかん))に左遷、失意のうちにその二年後死去しました。

その後、京の都で次々と災難が発生し、人々は菅公(道真の尊称)の祟りだと恐れるようになりました。

その祟りと伝えられていることを順にあげていきますが、鎌倉時代以降に創作された「北野天神縁起絵巻」のストーリーも交えてまとめてみます。

延喜(えんぎ)3年(903)2月25日 菅原道真死去。
・同年 道真の門弟 味酒安行(うまさけのやすゆき)が大宰府に道真の廟殿を建てる。道真の遺骸を運ぶが立ち止まって動かなくなったところに埋葬したという。のちに(延喜5年頃)その廟所は安楽寺という天台宗のお寺となり、これが明治時代の神仏分離で太宰府天満宮となる。
延喜5年(905年)京都にも安楽寺がつくられ、道真と親友関係にあった藤原忠平(ふじわらのただひら 時平の弟)の口利きで朝廷の許可をもらい、道真手彫りの自身像を祀る。のちに安楽寺天満宮と呼ばれ、京都で最初の天満宮だという。(安楽寺天満宮の由緒より)
延喜6年(906年)左遷のきっかけをつくったとされる藤原定国(ふじわらのさだくに)が急死。
延喜8年(908)左遷を目論んだ官僚のひとり藤原菅根(ふじわらのすがね)が死去。
延喜9年(909)左遷に追いやって最高権力を手にしていた藤原時平が39歳の若さで病死。「北野天神縁起絵巻」によれば、病に伏していたときに高名な僧が祈祷をしていると、時平の両耳から青竜が頭を出して祈祷をやめるよう告げ、祈祷は中止となり時平は亡くなったという。
延喜13年(913)道真のあとの右大臣のポストを手にしていた源光(みなもとのひかる)が鷹狩に出かけた先で泥沼に転落して溺死したとされるが遺体が上がらず、道真の怨霊と恐れられる。
その翌年に左京で大火、さらに翌年には疫病が流行。
延喜23年(923)皇太子保明(やすあき)親王が21歳の若さで死去。「菅師の霊魂、宿忿(しゅくふん)の為すところなり」と人々は恐れた。
・同年4月 醍醐天皇は名誉回復のために道真を右大臣とし、正二位を追贈。
延長(えんちょう)3年(925)時平の孫で皇太子だった慶頼(よしより)親王がわずか5歳で夭折。
延長(えんちょう)8年(930)炎天のため雨乞いの祈祷について清涼殿で相談しあっているなか突然の落雷藤原清貫(ふじわらのきよつら)は胸を引き裂かれ即死、平稀世(たいらのまれよ)も顔を焼かれ即死し、紫宸殿でも3人が焼け死んだ。縁起絵巻には天神の眷属である第三の使者 火雷火気毒王(からいかきどくおう)が太鼓を打ち鳴らしながら清涼殿を襲う様が描かれる。
・同年9月醍醐天皇は譲位しその一週間後に崩御。世間では長雨が続き洪水が発生。食料不足で疫病も流行り病人たちは道端にうち捨てられ、強盗も多発。
承平(じょうへい)6年(936)時平の長男 藤原保忠(ふじわらのやすただ)死去。保忠は道真の祟りを怯え、病臥のなかで祈祷のために「薬師経」を読ませていたところ、宮毘羅大将(くびらたいしょう 薬師如来の眷属で十二神将の筆頭の守護神)の名が出たところで、大将である自分を縊る(くびる 首を絞めて殺す)という意味で捉えてしまい気絶したという逸話が残る。
天慶(てんぎょう)5年(942)右京七条の多治比文子(たじひのあやこ)に託宣があり、「右近の馬場に祀るよう」という内容だった。財力がないので小さな祠を建てるにとどまった。
天暦(てんりゃく)元年(947)近江国比良宮の神官の幼児 太郎丸にも託宣があり、北野に天満宮が創建される。太郎丸は当時7歳だったということで、文子と同様、右近の馬場に祀れという内容だったので決定的となった。
正暦(しょうりゃく)4年(993)朝廷は道真に正一位・左大臣を追贈し、その後太政大臣も贈る。

以上のように、以下に当時の朝廷や官僚、人々が恐れていたかがわかります。

なかでも延長8年(930)の清涼殿の落雷は深刻な影響を与えましたが、この事件は史実とされる一方で、もっと前の時平が生きていた頃のエピソードも縁起絵巻に残されています。

道真が雷神となって時平のいる清涼殿に雷を轟かせながらやってきます。時平は刀を抜き、「たとえ雷神となったとて、この世では左大臣である私の次の席にあったのだから、少しは遠慮があってもいいのではないか」と言ってにらみつけます。すると一瞬雷神は鎮まりますが、これは時平ではなく醍醐天皇の威光を重んじて官位を乱してはならないとしたためだと言われ、道真の忠臣ぶりを示すエピソードとなっています。

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