真言宗醍醐派総本山。醍醐山を含む全体が境内で、山上を上醍醐、山下を下醍醐という。平安前期の貞観(じょうがん)16年(874)に理源大師 聖宝(りげんだいし しょうぼう)が開山。豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催したことが有名。三宝院(さんぼういん)の庭園は豊臣秀吉が自ら設計したとされる。五重塔(国宝)は平安時代 天暦(てんりゃく)5年(951)創建で現存する五重塔では法隆寺、室生寺に次いで3番目に古い。15万点にも及ぶ膨大な寺宝が保管されており、うち約7万5千点が国宝、430点が重要文化財の指定を受け、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録。
寺名 醍醐山(深雪山) 醍醐寺(だいござん(しんせつざん)だいごじ)
宗派 真言宗(しんごんしゅう)醍醐派
山号 醍醐山(上醍醐は深雪山)
所在 京都市伏見区醍醐東大路町22
本尊 薬師如来
開山 理源大師 聖宝(りげんだいし しょうぼう)
創建 貞観16年(874)
大徳寺 理源大師 聖宝(りげんだいし しょうぼう) 開山縁起

聖宝(しょうぼう)は天長(てんちょう)9年(832)に香川県の塩飽諸島(しわくしょとう)にある本島(ほんじま)に生まれました。
16歳で京の都に上って深草の貞観寺(じょうがんじ)に入り、弘法大師 空海の十大弟子のひとり真雅僧正(しんがそうじょう)に従って得度*(とくど)します。
*得度 出家して僧や尼になること。
その後、東大寺に入って学んだり、金峰山(きんぷせん)をはじめとした霊山で修行を重ねたりしながら、教相*(きょうそう)のみならず事相*(じそう)も重視し、大いなる祈りの形態として修験道の道を開いたとされます。
*教相と事相 教相は教義を理論的に追求することで事相は修法や灌頂(かんじょう)など実践すること。
40歳を過ぎた聖宝は、貞観寺内に普明寺(ふみょうじ)を創建し僧坊としていましたが、ある日、そこから東方を見ると、笠取の山頂にかけて五色の瑞雲(ずいうん めでたい兆しの雲)が現れたのを見てさっそく登りました。
山頂に着けば、まるで生まれ故郷に帰ったような思いがしたそうです。そこで谷のほうを見ると、老翁が湧き出る水を飲んで「ああ醍醐味*(だいごみ)なるかな。醍醐味なるかな」と言ったそうです。
*醍醐味 醍醐の味。美味の最高のもの。

聖宝はその老翁に問いかけます。
「我れこの山において伽藍を建立し、秘密の法門を弘めんと思う。其の法、久しく住すべけんや、否や」
老翁が答えます。
「この山は古仏転法輪*(てんぼうりん)の勝地、諸天*(しょてん)常に擁護したまう霊山なり。我はこれこの山の地主横尾の明神なり。されば山を永く和尚に献ずべし。和尚よろしく密教を弘め群生を利せられよ。我もまた衛護せん…」
*転法輪 釈尊が説法して人々の迷いを砕くことを、戦車が進んで敵を破ることにたとえたもの。
*諸天 天上界にあって仏法を守護する諸神。
この湧き水はのちに「醍醐水(だいごのみず)」と呼ばれ、今も湧き続けています。
そしてこの山を「醍醐山」と名付けました。
聖宝は准胝観世音菩薩*と如意輪観世音菩薩*の二体を彫り、醍醐山に小さな庵を建てて醍醐寺を開創しました。貞観16年(874)のことです。
*准胝観音 じゅんでいかんのん 一般には三目十八臂(ぴ)の像に表す。除災・治病・延命・求児の諸願をかなえる。
*如意輪観音 にょいりんかんのん 多くは六臂(ぴ)で如意宝珠と宝輪などを持つ。法輪をもって一切の願望を満たし、苦しみを救う。
この開眼供養のときにも不思議なことが起きたと伝えられています。
なんと如意輪観音は自ら東方に飛行して岩の上にとどまり、また准胝観音は立って歩きだすと、草堂の壇上に立ったとのこと。見ていた天台の遍照僧正*(へんじょうそうじょう)や藤原元方*(ふじわらのもとかた)らをはじめ、多くの群集が大変驚いたというお話が縁起にあるそうです。
*遍照 遍昭とも。六歌仙、三十六歌仙の一人で百人一首にも載る。桓武天皇の孫。出家して天台僧となり僧正となる。俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。
*藤原元方 平安時代中期の公卿。藤原菅根(ふじわらのすがね)の次男。大納言や民部卿などを歴任。
醍醐寺 国宝 五重塔(ごじゅうのとう)

平安時代後期、醍醐天皇の御冥福を祈るために第一皇子・朱雀天皇が承平6年(936)に着工、天暦5年(951)に完成しました。
現存の五重塔では、法隆寺、室生寺(むろうじ)に次ぐ古塔です。
高さ約38m、屋根の上の相輪*(そうりん)だけでも約13mあり、全体の約三分の一を占めます。
*相輪 五重塔など仏塔の最上部にある金属製のもので、下から露盤・伏鉢(ふしばち)・請花(うけばな)・九輪・水煙・竜舎(りゅうしゃ)・宝珠で構成。
塔は上にいくほど重なりの間隔が狭く、また屋根も小さくなっています。

屋根下の三手先*(みてさき)はとても立派なものです。
*三手先 斗栱(ときょう)のひとつで、柱から外方に斗(ます)組みが三段出ていて、三段目の斗で丸桁(がぎょう)を支えるもの。
内部には金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅や真言八祖像などが描かれていて、毎月29日の法要のときに写経奉納すれば外の扉から内側を拝観することができるとのことです。
醍醐寺 金堂(こんどう)

桁行*七間、梁間*五間、一重、入母屋造*本瓦葺で、室町時代に焼失していましたが、桃山時代に豊臣秀吉・秀頼により復興されました。
*桁行 梁間 桁行は建物の長いほうの長さ。梁間は建物の短いほうの長さをいい、梁行とも。
*入母屋造(いりもやづくり) 屋根の造り参照。
新築ではなく、紀州湯浅にあった満願寺の本堂を移築されたもので、鎌倉時代に修復された形跡はあったものの、平安末期の様式を遺すものとされます。

内陣には醍醐寺本尊である薬師如来座像と、日光・月光菩薩、そのさらに左右に四天王立像が祀られています。いずれも重要文化財です。
堂々たる大きさで、とても見ごたえがあります。
醍醐寺 下醍醐 その他いろいろな伽藍
西大門(仁王門)

豊臣秀頼が金堂につづき、慶長10年(1605)に再建しました。
その際に、もともと南大門にあった金剛力士像をこちらに安置しました。大仏師勢増(せいぞう)が仁僧(にんぞう)とともに長承3年(1134年)につくったものです。

清瀧宮(せいりゅうぐう)

醍醐寺の鎮守として清龍権現(せいりゅうごんげん)を祀っています。
清龍権現は、弘法大師 空海が帰朝するときに、長安の青竜寺より勧請してここに祀られました。女神であり、本地仏は准胝観音と如意輪観音とされます。
聖宝が横尾明神の言葉により醍醐寺を開き、この両観音像を彫って安置したことにもつながります。
この本殿は永長(えいちょう)2年(1097)に上醍醐から分社されたものです。上醍醐には清龍宮拝殿(国宝)があります。



コメント