大徳寺(だいとくじ)*基本*信長 秀吉 千利休ゆかりの寺院。-京都 北区-

大徳寺

臨済宗大徳寺派大本山大燈国師(だいとうこくし 宗峰妙超しゅうほうみょうちょう)正和4年(1315)創建持明院統(北朝)花園天皇大覚寺統(南朝)後醍醐天皇の両方から帰依され、両統の勅願寺となる。応仁の乱で荒廃するが、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)堺商人の支援を背景に再建、第47世住持となる。桃山時代には秀吉織田信長の葬儀を盛大に執り行う。千利休(せんのりきゅう)の木像が三門(金毛閣 きんもうかく)の上層に安置されたことから秀吉の怒りを買い利休が自刃する事件となる。さらに大徳寺破却の危機に発展したのを制止したのは第117世住持 古渓宗陳(こけいそうちん  蒲庵古渓 ほあんこけい とも方丈方丈玄関唐門国宝方丈庭園国の史跡および特別名勝

寺名  龍寶山 大徳寺(りゅうほうざん だいとくじ)
宗派  臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派
山号  龍寶山
所在  京都市北区紫野大徳寺町53
本尊  釈迦如来
開山  大燈国師 宗峰妙超(だいとうこくし しゅうほうみょうちょう)
開基  赤松 則村(あかまつ のりむら)*法名 円心(えんしん) 守護大名
創建  正和(しょうわ)4年(1606年)

大徳寺 開山~桃山時代

令和8年1月12日朝10時頃。北日本は大雪だそうだが、京都市内は無事だった。けど、寒い。

大河ドラマ「豊臣兄弟」にちなむ京の冬の旅で紹介されているひとつ、大徳寺にやってきた。

しかし境内は広い。中の道は車も時々通る(関係者?)し、郵便のバイクもしきりに走っていく。昔はもっと広かったとか。

まずは開山の概略から。

大燈国師 宗峰妙超(だいとうこくし しゅうほうみょうちょう)紫野赤松則村(あかまつ のりむら)の建てた小庵に移り住み、「大徳」と名付けたのがはじまり。

花園天皇後醍醐天皇の厚い帰依を受け南北両朝の勅願寺となって、その対立のなかでも「両陣相対して別事なし」といずれの帰依も等しく受けるという姿勢だったそう。

後醍醐天皇は特に「本朝無双之禅苑(ほんちょうむそうのぜんえん 日本に二つとない禅苑)」と評し、京都五山に数えた。

足利尊氏夢窓礎石に帰依するようになってからは次第に衰えはじめ、足利義満の代には五山の列から外れる。足利氏にとって敵対する後醍醐天皇との関係が問題になったと考えられる。

大徳寺は妙心寺とともに林下(りんか、りんげ)または山林派として皇室の帰依を受けながら独自に発展、幕府統制下の五山と対峙する構図となっていく。

さて、応仁の乱以降、大徳寺は焦土と化していたが、これを立て直すのが一休宗純(いっきゅうそうじゅん)だ。

宗純は81歳になって後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の勅命により第47世の住持となったものの、大徳寺には住まなかったらしい。

ただ堺商人とはつながりが深く、宗純に帰依していた尾和宗臨(おわそうりん)淡路屋寿源(あわじやじゅげん)といった豪商の資金援助を受けて法堂(はっとう)などを再建した。

ちなみに尾和宗臨の墓は大徳寺 真珠庵(開山:一休宗純)にあるらしい。

さて、堺の南宗寺(なんしゅうじ)という臨済宗大徳寺派の寺院は大徳寺と繋がりが深く、ここの住職になると大徳寺の住持になるという流れができていたようだ。

そのうちの一人、古渓宗陳(こけいそうちん)桃山時代の禅僧であり、これに帰依したのが堺の商家から出た茶人 千利休(せんのりきゅう)だ。

大徳寺 信長の葬儀~千利休の自刃

三門 金毛閣(きんもうかく)

さて桃山時代、千利休織田信長茶頭(さどう 茶事をつかさどるかしら)を務めるなど、大徳寺を舞台に活躍。利休は大徳寺門前に屋敷を構え、また生前に大徳寺 塔頭(たっちゅう)の聚光院(じゅこういん)に墓もつくった。聚光院は堺の領主三好長慶(みよしながよし)の菩提を弔うためにその養子の義継(よしつぐ)が創建したもの。

天正10年(1582)6月本能寺の変で信長が自刃。遺体は見つからないとされたが、秀吉が同年10月に7日間にわたり信長の葬儀を盛大に執り行う。また翌年には信長の追善菩提として古渓宗陳を開山に塔頭 総見院(そうけんいん)を建立。信長とその一族の墓碑がある。

これがきっかけとなって、名だたる大名が菩提寺として塔頭を次々建立し、大徳寺は武士が嗜む茶の湯の本山のようにもなって栄え、のちの徳川時代にはその勢いを恐れて新寺建立を禁じたほどだった。

さて、秀吉の時代に戻って、千利休は秀吉の茶頭も務め、聚楽第内に屋敷を構えることとなる。やがて政治に影響力を持つようになり、秀長大友宗麟(おおともそうりん)に、「内々の儀は宗易(千利休)に、公儀の事は宰相(豊臣秀長)存じ候」と伝えたという。

その後、千利休は自刃に追い込まれることになるが、なにがあったのか。

まず、天正16年(1588)古渓宗陳は秀吉の怒りを買って筑前博多に配流されている。
 *秀吉が徳川家康と織田信雄の関係を分断させるために信長の菩提寺 天正寺建立を宗陳に任せたが、その後家康と信雄が決別したため建立の必要がなくなり、預けていた金の返還を宗陳に求めたが既に一部使われていて返還できず失脚したとされる。ただ、石田三成の讒言によるものとも言われており、真相は不明。

天正17年(1589)に利休は大徳寺三門 金毛閣(きんもうかく)を単層から重層へ増築している。このとき、利休の等身大の木像が上層階に安置される。おそらく利休の考えではなく、再建した利休に対して大徳寺側が行ったことと考えられている。

天正19年(1591)1月22日に秀長が病死。秀長の全幅の信頼を受けていた利休にとっては不幸だった。石田三成ら奉行衆は利休をよく思っていなかったとされる。

同年2月13日、利休は堺に蟄居(ちっきょ)を命じられる。原因は、三門の利休像の足の下を秀吉がくぐることについて不敬に当たるというものと、茶道具に法外な値をつけて売買した売僧(まいす ひとをだますもの)の二件の罪状。2月25日には一条戻橋のたもとで前代未聞の木像のハリツケ。これは三成によるものと思われる。

2月28日、京に呼び戻され、聚楽屋敷にて切腹。首は利休の木像に踏みつけられる形でさらされたという。

利休に対する罪状はいずれも言いがかり的なものと考えられ、本当の原因はわかっていない。

ただ、このあと唐入り(からいり 朝鮮出兵)が始まる。秀長や利休がそれに反対意見だったとされており、それが原因とする説も多い。

古渓宗陳は千利休が責めをうけているときに「すべての責任は私にある」と訴えたが聞き入れられず、利休を救うことはできなかった。秀吉はさらに大徳寺を破却しようとした。それを宗陳は「私を殺してからにしてくれ」と命がけで制し、大徳寺を守ったとされる。

大徳寺 勅使門、仏殿、法堂、経蔵

勅使門(重要文化財)

中心となる伽藍のうち、南からまずは勅使門が見れる。

この勅使門は、なんと慶長18年(1613)頃に御所の内裏西に建立された御唐門を後水尾天皇の命により寛永17年(1640)に移築したもの。

後水尾天皇は紫衣事件(しえじけん)が有名だ。

まず、江戸幕府は朝廷を統制する目的で禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定していたが、後水尾天皇が幕府の了解なく大徳寺の僧に紫衣を許可したので幕府はこれを違反だとして取り消した。かつて大徳寺の住持を務めた沢庵宗彭(たくあんそうほう)も京に上って抗議したところ流罪となる。

朝廷よりも幕府が優越することを示した事件。後水尾天皇は幕府に反発し、幕府になにも言わずに譲位するということにもなった。徳川秀忠の死により大赦令(たいしゃれい)が発せられて事件に関係した者は許され、その後家光により紫衣も戻されたとのこと。

仏殿(重要文化財) 江戸時代 寛文5年(1665)に再建

まずは、仏殿で手を合わせる。なかには金色の釈迦如来が安置されている。天井には狩野元信筆の天井画「天人散華図(てんにんさんげのず)」があったらしいが、ほとんど消えている。再建前の仏殿から引き継がれたものと伝わる。

大徳寺のイブキ

仏殿の前に大きな木がある。案内板にはイブキ(イブキビャクシン、ビャクシン)というヒノキ科の木で、これほどの大木になるのは貴重とのこと。

法堂(重要文化財)

仏殿の後方に法堂(はっとう)がある。今回、ここと経蔵が有料公開となっている。

法堂は大徳寺伽藍のなかで一番大きいとのこと。寛永13年(1636)に再建。一重裳階*(もこし)付き入母屋造り
 *裳階 仏堂・仏塔など軒下壁面に庇状のものを取り付けた構造物。しょうかいとも。

天井画の雲龍図は狩野探幽が35歳の若いときに描いたとされる。

手を叩くと、天井辺りが震えるような音が響き、鳴き龍と呼ばれる。

私は何度やってもうまく鳴いてくれなかった。

経蔵(重要文化財)

経蔵も今回数年ぶりに有料公開された。

寛永13年(1636)に京の豪商 那波宗旦(なわそうたん)が再建。宝形造り、本瓦葺。なかに経典3500冊を納める回転式の八角輪蔵(りんぞう)があり、これを一回転させるとすべて読んだのと同じ功徳があるとされる。

輪蔵を考案したとされる傅大士*(ふだいし)の木像も安置される。
 *傅大士 中国南北朝時代の在俗仏教者。転輪蔵を創始。俗に笑い仏とも。

輪蔵には触ってはいけないとのことで、ガイドさんの案内で参拝者が自ら輪蔵の周りを一周した。経典の入っている無数の箱にはそれぞれ漢字一文字があり、自分の名前を見つけることができるとうれしい。

輪蔵の下部の扉も開いていて、回転させるための中心の心柱を見ることもできた。

今回は法堂と経蔵だけの特別公開で少々物足りなかったが、別の公開のときにはまたぜひ来たいものだ。

仏殿と法堂を結ぶ明月橋

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