織田信長が天下統一を目前に控え安土山に築いた城の跡。特別史跡に指定。長篠の合戦で武田勝頼を破ったあとの天正4年(1576)に築城が始まり、3年後の天正7年(1579)に完成。そのわずか3年後には本能寺の変が起こって信長は自害、天主(天守)・本丸は焼失した。実際にどんな姿だったかというのは残っていない。安土城は石垣の上に天主閣(天守閣)を築く形の城郭の先駆けとなった。
安土城の特徴 豪華な天主(天守)
太田牛一(おおたぎゅういち)の書いた「信長公記(しんちょうこうき)」に「天主」と記載されていたため、安土城では「天守」ではなく「天主」と表現されているのでここでもそれにならう。
地上6階地下1階という高層建築で、堅牢な石垣の上に天主を建てるという、それまでにない構造の城だったという。

今見れる天主跡だけを見ると、天主はこじんまりしているのかと思ってしまうが、実は周りの石垣が見える部分の土台はもっと大きく、石垣に囲まれたところはあくまで地階の間だけということだ。天主はここで感じるよりももっと壮大な規模だったらしい。
望楼型と分類される城の形で、1~2階に入母屋造り(いりもやづくり)*の構造を持ち、その上に物見櫓のような望楼を築くという、当時としては画期的なスタイルの建築で、その後の城郭建築に大きく影響した。
*入母屋造り 屋根の造り参照。
また、信長はこの城を権威の象徴とすべく、屋根はすべて瓦葺き、金箔を張った金箔瓦や金箔鯱(しゃちほこ)も見つかっていて、最上階には金箔を張り巡らし、その下の階の柱は朱色に染めあげて、なんとも豪華絢爛な様相だったと伝わる。
天主近くの伝本丸跡の調査によれば、それまで信長の居所とされていた本丸御殿には天皇の御所にある清涼殿と同じ造りが見られ、行幸の間として準備されたものではないかと推測されている。このことから、信長自身は天主に住んでいた可能性が高く、普通は天主を居所とすることはなかったため、史上ただひとりの天主に住んだ殿であるとも言われている。
安土城の特徴 天皇の行幸を予定していた?
「築城450年」の幟が並ぶなか、奥に続く大手道(おおてみち)の石段へと向かう。
安土城は標高199mの安土山という低いところに築かれた平山城(ひらやまじろ)で、これはちょうど山城と平城の中間くらいのもの。

城ははじめは難攻不落とされる山城が多かったが、時代を経るうちにその地を治めるための城という形で平地に造られるようになる。安土城築城はその過程の時代にあったと見られる。
地形的には当時、大手道がひらかれる南側以外は琵琶湖の内湖に囲まれており、防御性も兼ね備えていた。
ただ、近年の調査によれば、虎口(こぐち)という入り口が四か所も見つかっており、このうち西端の桝形(ますがた)虎口1か所は門を入ると四角く区切られた空間になっていて敵を迎え撃つのに適している構造を持つが、他の3か所は平虎口となっていて容易に城内へはいれる出入口となっていたことがわかっている。
さらに虎口から入れば道幅6mもの大手道が天主へ向かってまっすぐに続いており、これらも行幸を想定して造られたようだ。
地域的には、岐阜城よりは京の都に近く、また北陸や東海への要衝でもあった。楽市楽座といわれる政策で全国から商人や職人が集まった。日本初のセミナリヨ*も設立され、宣教師を通じて西洋文化との交流もさかんだった。信長が天下を統一した先には、この城はまさに国の政治経済の中枢となるはずだった。
*セミナリヨ イエズス会が設立した司祭や修道士育成のための初等教育機関
安土城の特徴 石垣はあの穴太衆(あのうしゅう)が手掛けた?

琵琶湖西岸の大津市坂本周辺を拠点とし、安土桃山時代に活躍したとされる穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が安土城の石垣造りを支えたとされている。
ただ、近年の研究では、必ずしも穴太衆がすべてを手掛けたかについては疑問視されているらしい。
安土城は安土山全体に石垣を築く形で造られており、総石垣造りと呼ばれる。
天主台については高さ9mもの石垣を積んだ上に天主を造っており、かなりの技術で石が積まれたとされる。これは高石垣(たかいしがき)と呼ばれる。
穴太衆の特徴としては、野面積み(のづらづみ)といって加工をほとんどしない自然石をそのまま積み上げ、間に小石などを入れて崩れにくくしたうえに水はけのよい石垣をつくることがあげられる。
また、石垣の角の部分は特に強固に積む必要があり、長方形の石を交互に組み合わせて積む算木積み(さんぎづみ)という技術も導入したといわれる。
これらを総称して穴太衆の手掛けた石積みの技術は穴太積みと呼ばれ、全国へと広まっていった。
ただ、安土城の石垣の調査によれば必ずしも算木積みとはなっていなかったりして、どうもすべてが穴太衆の手掛けたものとはいいきれないようだ。
期間的にも短期であることや、大規模な工事であることを考えると、ひとつの集団だけに任せたというのは考えにくく、まさに全国から優れた石工職人を集めて造ったというのが実際のところかもしれない。
ともあれ、安土城以降、穴太積みは評判を呼び、全国の城郭の約8割は穴太衆が関わったともいわれている。
安土城の歴史 築城から廃城まで

天正4年(1576)に丹羽長秀(にわながひで)を総普請奉行として築城を開始した。ちなみに縄張り奉行*に指名されたのは羽柴秀吉だった。
*縄張り奉行 主に城の設計を担当する者。本丸や曲輪(くるわ)の配置など、縄を張って建物の位置などを設計する。
天正7年(1579)に天主が完成し、信長が移住する。
天正9年(1581)、イタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとその船を歓待する目的で信長が城下の家々の明かりを消させ、安土城全体を提灯や松明でライトアップしてヴァリニャーノが感銘を受けたという。日本初のライトアップといわれる。
天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長死す。安土城は一時、明智光秀の手に渡るも光秀が秀吉に滅ばされてからすぐに天主や本丸が焼失する。
秀吉の庇護のもと、信長の次男である信雄(のぶかつ)や孫の三法師が入城するも、天正13年(1585)の小牧長久手の戦いで信雄が敗れたあと、秀吉の甥である秀次の近江八幡城築城にともない、城下町も移され、廃城となった。
天主や本末が焼けた理由は不明で、光秀軍が放火したとか、信雄が誤って焼いたとかいろいろと説がある。
安土城 そのほかの見どころ
大手道を上がり始めるとほどなく右手に伝・前田利家邸跡、左手には伝・羽柴秀吉邸跡がある。

秀吉邸跡は斜面の勾配に沿って2段の土地にわたっていて、その礎石は安土城天主跡の礎石の半分くらいと小さく、おそらく建物自体は平屋あるいは2階までの高さの建物だったといわれる。
また下段のほうには大手道に面して2階層の立派な櫓門(やぐらもん)があったとされる。
秀吉邸跡の斜め向かいには伝・徳川家康邸跡もある。ただし、摠見寺(そうけんじ)の仮本堂があり、普段は入れなくなっている。摠見寺については後述する。

大手道を登ってゆくと、ところどころに「石仏」の案内札がある。見ると確かに仏の姿が刻まれた石が階段に使われている。
安土城の階段や石垣には石仏や墓石も使われているとのことで、これは福知山城に見られた転用石(てんようせき)と同様のものだ。
これも単に石不足を補うために集めたからだとか、宗教統制の意図があるのだとか説は分かれるが、きちんと外界へ向けて設えてあるところを見ると、造った者の心遣いが感じられるようで感慨深い。

石段や石垣が好きならたまらないだろう。マチュピチュのような古代遺跡を見るような感覚になれるかもしれない。

転用石として使われたと推測される仏足石が整備工事中に崩れた石垣の一部から見つかり、安置されている。
室町時代中期のものと推定されていて、案内板によれば、古代インドでは仏像より先に仏足石が崇拝の対象とされていたらしい。日本では奈良の薬師寺にあるものが現存する最古のものであり、この仏足石も数少ない貴重な遺物だという。

天主から西のほうへ降りていくと、一瞬地中に埋まっているかと思うような塔が見えた。
摠見寺(そうけんじ)の三重塔で室町時代の享徳(きょうとく)三年(1454)に建立されたものだが、信長が甲賀の寺院より移築したとされる。

降りていくうちに見えてくるのが二王門。案内には元亀2年(1571)創建とあるが、三重塔と同様、信長が安土城築城に合わせて甲賀より移築したものとされる。
「三間一戸樓門*入母屋造 本瓦葺」と案内札にある。
*樓門 二階造りの門で下層に屋根がないもの。下層に屋根があるものは二重門。

さらに「組物は上下層とも三手先(みてさき)*で(中略)、下層中央間の彫刻入りの蟇股(かえるまた)*や隅柱の上部についている頭貫(かしらぬき)*の木鼻*などは室町時代末期の特徴をよく現わしている」らしい。
*三手先 斗栱(ときょう)のひとつで、柱から外方に斗(ます)組みが三段出ていて、三段目の斗で丸桁(がぎょう)を支えるもの。
*蟇股 蛙が股を開いたような形の材。梁(はり)や桁(けた)の上に置かれる。もともと構造上必要な支柱だったが、のちに装飾化。
*頭貫 柱の頂部を切り欠き、上から落とし込むことで繋ぐ水平材。貫より早い。
*木鼻 頭貫などの水平材が隅柱から突き出た部分に繰形(くりかた)や絵様(えよう)をほどこしたもの。

金剛力士像は応仁元年(1467年)という大変なことの始まりの年の作だそう。


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