臨済宗建仁寺派の禅寺で、正式には高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)。慶長11年(1606)に豊臣秀吉の供養のために正室である北政所(きたのまんどころ)が創建。度重なる火災で多くの堂宇を失ったが、開山堂・霊屋(おたまや)・表門・観月台・傘亭・時雨亭は創建当時のまま残り、いずれも重要文化財で、開山堂以外は伏見城の遺構とされる。庭園は国の史跡および名勝に指定。
寺名 鷲峰山 高台寿聖禅寺(じゅぶざん こうだいじゅしょうぜんじ)
宗派 臨済宗(りんざいしゅう)建仁寺派
山号 鷲峰山
所在 京都市東山区 高台寺下河原町526
本尊 釈迦如来座像
開山 弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)*初代 曹洞宗住職
※中興の祖として三江紹益(さんこう じょうえき)を開山とする見方も。
創建 慶長(けいちょう)11年(1606年)
高台寺のみどころ 小堀遠州作として復元された庭園が美しい

東大路通から入って雰囲気のある石塀小路(いしべこうじ)を抜けるとねねの道に出る。高台寺を指す案内に従えば、台所坂と呼ばれる魅力的な小坂に引き込まれる。この坂を歩くだけでも価値があると思いながらゆっくりと上がっていく。

登った先に「台所門」と札のある門に出迎えられる。案内には、ねね様の臺所(だいどころ)に続く坂道であり、この門をくぐると料理がうまくなるとある。
料理がうまくなるようにと祈りながらくぐり抜けるとほどなく受付の案内。進んでいくと冒頭の景色がどんと迫ってくる。

まず目を引くのが木々の合間から見えてくるミニチュアのような茶屋 遺芳庵(いほうあん)だ。近くに建つ鬼瓦席とともに、江戸初期の豪商 灰屋 紹益(はいや じょうえき)の邸宅にあったものを移築したとされる。
遺芳庵は若くして亡くなった妻の二代目吉野太夫(にだいめよしのだゆう)を偲ぶためにつくったそうで、吉野太夫が好んだとされる丸い窓は吉野窓と呼ばれる。

鬼瓦席は、なかに扁額の代わりに鬼瓦が掛けられたことからそう呼ばれるらしい。通常は非公開なので、茶会などが催されるときに参加するといいのかもしれない。
さらに進むと偃月池(えんげつち)が見えてくる。池を渡る回廊の向こうには開山堂が見える。

この回廊の中ほどには、空の月と池面に映る月を愛でるための観月台と呼ばれるところがある。秀吉が好んでいたことを偲んで作られたとされる。
この池のなかに浮かぶ島は、写真ではわかりにくいが確かに亀のような形であり、回廊の反対側には築山の半島のようなものも作られていてこれを鶴としている。合わせて鶴亀の庭と呼ばれ、小堀遠州作と伝わる。
開山堂の向こうには、もうひとつの池 臥龍池(がりょうち)があり、こちらの庭も小堀遠州作と言われている。

これらの庭園の修復を手掛けたのは、北山 安夫(きたやま やすお)という京都の庭師だ。
昭和63年(1988)に圓徳院の住職から声がかかった。当時、高台寺の庭園は小堀遠州作庭とされて国の史跡名勝の指定を受けていたものの、荒れるにまかせていてひどかったという。
生い茂った木々を伐採し、土砂に埋もれた参道や階段を修復、高台寺境内ほぼすべてに手を入れてゆく。小堀遠州ならどう作ったかを想像しながら当時を復元するといった難しい仕事を20年以上かけて続けた結果、今に至っているとのこと。
江戸初期の姿をしのぐものになっているとも言われていて、確かに素人目にみても素晴らしいと思う。四季折々に姿を変えていくので、何度でも訪れたいと思わせる魅力がある。
高台寺のみどころ 方丈・波心庭・開山堂・霊屋・傘亭・時雨亭

方丈に入って石庭である波心庭(はしんてい)を観る。秋はもみじ、春は枝垂桜が有名とのこと。方丈は大正元年(1912)に勅使門とともに再建されている。本尊は釈迦如来坐像。首に瓔珞*(ようらく)をつけ、宝冠も頭に載せていることから宝冠釈迦とも呼ばれる。
*瓔珞 珠玉や貴金属に糸を通して作ったインド貴族の装身具。仏像の装飾にも。

開山堂には、中興の祖とされる三江紹益(さんこう じょうえき)が祀られている。もともと高台寺は曹洞宗で始まったが、その後臨済宗に改宗しており、その際に開山として招いたのが建仁寺禅僧の三江紹益だった。
天井には狩野三楽(かのうさんらく)作とされる龍図があり、外人の方も熱心に見上げていたが、天井画だけでなく欄間などの彫刻も素晴らしかった。

高台寺で最も重要なところが霊屋(おたまや)である。秘仏である本尊の大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)のほか、その右側に秀吉坐像、左側には高台院(ねね)の坐像が祀られる。ねねの坐像の下にはねね自身の棺が納められている。
大随求菩薩坐像はわずかに5.2cmであり、両脇の毘沙門天立像と吉祥天立像もそれぞれ4cmほどしかない。いずれも桃山時代当時のもので、大随求菩薩は秀吉の念持仏(ねんじぶつ)であり、いつも持ち歩いていたという。
秀吉・高台院の像を安置する厨子(ずし 仏像・舎利または経巻を安置する仏具)の扉には平蒔絵(ひらまきえ)という手法で黒漆地に金粉で仕上げた高台寺蒔絵が施されている。楽器尽くしと呼ばれる数々の楽器を描いた文様のほか、ねねの好みだったとされる秋草の文様が特徴。坐像背景の絵や障壁画は狩野光信(かのうみつのぶ)の一派による作とされる。
霊屋自体は宝形造り(ほうぎょうづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)、正面は唐破風となっている建物で、阿弥陀ヶ峰の豊国廟のほうを向いて建てられたという。
外から中を覗いて見る形なのでなかなか見づらく、双眼鏡などがあればいいかと思う。

傘亭と時雨亭という茶室は土間廊下でつながっている。いずれも茅葺で竈土(くど)がしつらえてある。
傘亭はその宝形造りの屋根が中から見ると傘を開いたようになっているのでその名がつけられたという。

時雨亭は2階建てになっていて一階は土間で台所があり、二階が席になっている。丸い窓が特徴。
以上、主なみどころを見てきたが、季節によっても趣は大きく変わるだろうから、次は春の桜の時期にぜひ来たいものだと思う。
高台寺 歴史

北政所(ねね)はもともと生母の菩提寺として寺町に康徳寺(こうとくじ)を建立していて、これを高台寺に改修していくという案もあったようだが、手狭だったので東山の地域に造営することとなった。
北政所は慶長8年(1603)に後陽成天皇より「高台院」の号を賜わり、この名から高台寺と名付ける。
翌年、慶長9年(1604)は秀吉の七回忌に当たるということで豊国社の8月の例大祭が盛大に執り行われ、徳川家康の援助のもと、慶長10年(1605)には福島正則、加藤清正、浅野長政が駆けつけ、高台寺建立が始まる。
その建立場所の交渉は少々難航し、土地の一部が鷲尾家(わしのおけ 藤原北家四条流の公家)の所有で地名にもその名があったためなかなか応じなかった。おそらく家康の取り成しがあってなんとか片付いたが、高台寺の山号を「鷲峰山(じゅぶさん)」として鷲の字を入れたのは鷲尾家に忖度したものではとも言われる。
正確な記録はないものの慶長11年(1606)には高台寺の落慶を迎えたとみられている。
慶長19年(1614)の大阪冬の陣、慶長20年(1615)の夏の陣で豊臣家が滅ぶのを高台院はどんな思いで見ていたか。豊国神社や方広寺大仏殿も取り壊しが家康により命じられたはずだが、実際には取り壊しはされず、そのまま放置されることとなった。これには高台院の取り成しがあったものと考えられている。

ねねの取り成しは関ヶ原の戦いで西軍にあった大名らも存続を認められた例が多いことにもつながったと考えられていて、多くの武将からねねは慕われていたという。
秀吉の側室「淀殿」の子である秀頼からもねねは「まんかかさま」と慕われていたそう。
甥にあたる小早川秀秋は京に出てくるたびにねねにお金をねだったりして甘えていたとか、秀秋の兄の勝俊は関ヶ原で家康についていたところ、当初西軍に属していた秀秋と戦いたくないということでねねのもとへ逃げこみ、家康の怒りを買って切腹に追い込まれるところを助けたのもねねの取り成しだと言われている。
勝俊はその後、木下長嘯子と号し、歌の才能を開花させていく。
開山以来、曹洞宗の僧侶が永平寺より来て住職を務めていたものの、短期間で頻繁に変わるという事態に陥り、ねねはなんとかしたいと願っていたところ、建仁寺の塔頭常光院の住職である三江紹益(さんこう じょうえき)が浮上してきた。
紹益の常光院はねねの兄である木下家定が菩提所と定めていた寺でもあり、家定の七男は紹益の弟子になっていた。
ただ、紹益は臨済宗の僧侶であり、当時転宗はなかなか認められない情勢でもあったうえに、曹洞宗も対抗してきて決着しなかった。
寛永元年(1624)に高台院の血縁関係を重視する形で江戸幕府が臨済宗建仁寺派に転宗することを認め、その年の9月3日に紹益が入山、その3日後、安心したかのように高台院は息を引き取ったという。
76年の生涯だった。
<参考文献>
・「古寺巡礼 京都37 高台寺」 小堀 泰巖 飯星 景子 ㈱淡交社 2009
・「高台寺物語」 後藤 典生 著 ㈱四季社 2008


コメント