開山の清玉上人(せいぎょくしょうにん)は織田家と縁があり、京における織田家の菩提寺として整備された。正式名は捴見院(そうけんいん)阿弥陀寺。捴見院は織田信長の法名(戒名)。百万遍知恩寺の末寺。大正6年(1917)に勅使が来訪、正一位(しょういちい 諸王および諸臣に与えられる最高位)の位階が追陞(ついしょう)され、「織田信長公本廟所」と公認される。本堂には信長・信忠の木像や討死衆の合祀位牌などが祀られ、毎年6月2日の信長忌に一般公開されている。
寺名 蓮台山 捴見院 阿弥陀寺(れんだいざん そうけんいん あみだじ)
宗派 浄土宗
山号 蓮台山
所在 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
本尊 阿弥陀如来座像
開山 玉誉清玉(ぎょくよせいぎょく)
創建 天文(てんぶん)24年(1555年)
阿弥陀寺の由緒
天文24年(1555)頃に清玉上人に帰依していた武将たちにより、芝薬師蓮台野(しばやくしれんだいの 現在の上立売大宮周辺)に八町四方(1町およそ109m)もの広い敷地に整備されました。
正親町天皇(おおぎまちてんのう)も清玉上人に深く帰依され、勅願寺(ちょくがんじ 国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して建てられた寺)とされました。

また正親町天皇は清玉上人に東大寺大仏殿再建のための大勧進職(だいかんじんしょく 寺社の造営や修復のために浄財を募ることの責任者)を任せました。東大寺文書には実際に再建勧進協力の織田信長朱印状が残っているとのことです。
なお、阿弥陀寺は天正15年(1587)頃に秀吉による寺町造成により、信長公らの墓とともに現在の地へ縮小移転されました。
阿弥陀寺が織田信長公本廟とされた由来
天正10年(1582)6月2日。清玉上人は信長公がおられる本能寺に軍勢が押し寄せたと聞いて僧徒二十人余りとともに駆けつけたところ表門は多くの軍兵が取り囲んでいて入れず、なんとか裏道から入ることができました。堂宇には火が放たれて、聞けばもう信長公は切腹されたとのことでした。十人余りの武士たちが火を焚いているところで問えば、信長公は死骸を決して敵に渡すなとの遺言を残しており、ただ四方を敵兵に囲まれているので持ち出すこともできず、やむなく火葬して隠したあと一同自害するつもりとのことでした。

上人は、自らと信長公は格別の由縁があり将来追悼もしなければならないと遺骨を持ち帰る旨を伝え、みなさんも自害するより信長公のために戦う方がいいのではと語ると、武士たちは大いに喜んで門前へと向かったそうです。そのすきに遺骨を法衣に包んで本能寺の僧徒が逃げるのにまぎれて苦も無く阿弥陀寺に戻り、地中深くに埋めたとのことです。
また上人は、信長公後継ぎの信忠公も二条城新殿にて自害され、敵に遺骸を渡さないために火葬に付されたと聞き、その日の午後、明智光秀が七条河原で休憩しているところへ参じて、この度の本能寺並びに二条城においての戦死者には当寺の檀越(だんおつ 檀家)も多く、遺骨を持ち帰って葬りたいと申し出たところ許容されたため、信忠公をはじめ多くの遺体を阿弥陀寺に移して葬儀を行いました。
のちに光秀を亡ぼして天下の武将となった秀吉から信長公の法事を行いたいとの話がありましたが清玉上人は既に済んでいるとして受けませんでした。法事料として三百石の朱印状が下附されるも上人はやはり受けず、秀吉の働きかけは三度に及びましたが上人は固辞して決して受けませんでした。
そのため、秀吉は新たに洛北紫野大徳寺境内に総見院と号する寺を建立し、信長公の法事を執り行いました。
以上は、信長公本廟参拝の申込時に頂く「阿弥陀寺由緒略記」の内容を要約させていただいたものとなります。
阿弥陀寺 信長公本廟を参拝
本坊からさらに奥へ進むと阿弥陀寺の広い墓地に出ます。

とても日当たりがよく、中ほどには大きな木が黄色くなった葉を落としつつあり、とても美しい空間でした。
参道をそのまま進めばすぐに信長公、そして子の信忠公、信孝公の三つの小さな墓石が寄りあった廟所に至ります。
その横には森蘭丸など本能寺で散った武将たちの墓も並んでいます。
右へ折れて墓地の真ん中あたりには開山の清玉上人の立派な墓もあります。
ちなみに、森光子さんのお墓もこの阿弥陀寺にあります。
阿弥陀寺 本堂公開は年一回
注意が必要なのは、本堂が公開されるのは「信長忌」法要の日である6月2日のみということです。

本堂にはご本尊である丈六阿弥陀如来座像と、「華曼荼羅」として知られる天井画を見ることができるそうです。
*丈六(じょうろく):釈迦の身長が1丈6尺(約4.85m)あったことからその高さ、またはその高さの仏像をいう。座像は半分の8尺だがそれも丈六という。丈六より大きいものは大仏。
また、信長公の木像や位牌も公開されます。
ほかに信長公嫡子の信忠公、信長兄の信廣公や開山の清玉上人の木像が見れるそうです。
なかでも信長公は写真で見ても畏怖を感じてしまうような姿です。
経年で顔の色が黒ずんでいることもあるかもしれませんが、無機質な小さな目と異様に大きい鼻、少し開かれた口は朱色が際立っていて、冷徹な印象があります。
本物を見たある作家の方はこの像を実際に見た瞬間、「これは本物だ」と確信して震えるほどだったと言います。
信長公の魂が宿ったのかもしれないですね。
そのほか寺宝としては、阿弥陀寺が縮小移転した際に後陽成天皇より下賜されたという「捴見院」の勅額や、信長の使用したとされる「手槍先」、清玉上人自筆とされる本能寺・二条城討死衆の法名・氏名が記されたものなどがあり、公開されることもありそうです。
阿弥陀寺 信長公の骨が眠るのは本当か
信長の遺体は一般には「見つからなかった」とされていると思います。
また、火災のあとの遺体(特に骨)から人物を割り出すには、DNA鑑定などの現在の技術を用いないと難しいだろうとされていて、見つからなかったというよりは識別できなかったというのが正直なところではないかと言われています。
そのほか、ご由緒を読むと確かに
・四万ともいわれる明智軍に囲まれる中、清玉上人率いる20名もの僧徒が本能寺に入れるものなのか。
・森蘭丸らが信長公の遺体を焼いていたとされ、骨になったものを清玉上人らが持ち帰ったというが、時間の猶予のないなか骨になるまで焼くことができたのか。
・明智勢としては信長の首あるいは遺骸が絶対に欲しいなか、簡単に持ち出せるのか。
・七条河原で光秀が休んでいるところを清玉上人が訪ねたとのことだが、渦中の人とそんな簡単に会えるのか。
といったところが私としては気になりました。
ただ、これらが完全なつくり話だとするのも無理があるように思われます。
遺骨を持ち出すところのエピソードや光秀、秀吉とやり取りするところは創作があるかもしれませんが、廟所に埋められた信長の遺骨はほんとうなのではないかと思えてしまいます。
というのも、清玉上人という方にもなれば、霊力というものがあるならば、遺骸を誤ることは少ないだろうと思います。オカルトに逃げるわけではありませんが…。
また、勅使がきて公認するということにはなにか確信があることだろうと思えます。

信長の遺体を隠すにせよ、隠しただれかはそのありかを知っていて、あとから阿弥陀寺に持ち込んだのかもしれません。ただ燃やしてだれにもわからないように放ってしまうというのもなさそうに思えます。
阿弥陀寺のほうでは、後年わかりやすい創作をつけ加えたのかもしれません。これもまったくなにもないところから創作するというのは考えにくい気がします。
いずれにしても、本能寺の変にはいくつもの謎がありますが、こうした個別の由緒で永きにわたって守られているものというのは、なにか確かなものがあるだろうし、それが他の由緒と矛盾をきたすとしても、それぞれ自然に受け取れるところは受け取るべきかなぁと思いました。


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