龍安寺(りょうあんじ)*基本*特別名勝の枯山水式石庭が有名な禅の古刹。-京都 右京区-

龍安寺

世界文化遺産臨済宗妙心寺派の禅のお寺。枯山水(かれさんすい)の石庭(せきてい)は国の史跡および特別名勝でこの方丈庭園拝観だけが有料。広い境内の庭は鏡容池(きょうようち)を含めて国の名勝作者不明の石庭には四つの謎室町時代細川 勝元(ほそかわ かつもと)が妙心寺(みょうしんじ)の高僧 義天 玄承(ぎてん げんしょう)を招いて創建。もとは徳大寺家の別荘だったところ。細川 勝元は応仁の乱東軍総大将のひと。水戸黄門こと徳川 光圀(とくがわ みつくに)が寄進した「吾唯足知 われただたるをしる」の手水鉢(ちょうずばち)がある。

寺名  大雲山 龍安寺(だいうんざん りょうあんじ)
宗派  臨済宗妙心寺派
山号  大雲山
所在  京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
本尊  釈迦如来座像
開山  義天 玄承(ぎてん げんしょう)※勧請開山は日峰 宗舜(にっぽう そうしゅん)
開基  細川 勝元(ほそかわ かつもと)
創建  宝徳(ほうとく)2年(1450)

◎境内図

龍安寺 創建までの歴史

龍安寺 鏡容池

皇室の御願寺として円融寺(えんゆうじ)が建立される。

ときは平安時代に遡ります。

天皇の御願により、衣笠山(きぬがさやま 京都市街北西部の山)の麓に四つの寺が建てられました。

四円寺といって、仁和寺近くに建てられた、「円」の字を持つ四つの寺を指します。

そのうち円融寺(えんゆうじ)は円融天皇の御願寺で、ほかには、一条天皇の円教寺、後冷泉天皇の円乗寺、後三条天皇の円宗寺がありました。

この円融寺のあった場所が現在の龍安寺にあたるところとなります。

円融寺が建立されたのは、天元6年(983)で円融天皇はこの翌年に譲位し、法皇となって円融寺で風流文雅な生活を送ったといわれます。

徳大寺家へ引き継がれる。

円融法皇が亡くなると円融寺は衰退していきますが、平安末期の左大臣 藤原 実能(さねよし)がその地に徳大寺という名の山荘を建て、のちに家名も徳大寺に改め、以後長年にわたり代々引き継ぎました。

この実能は藤原氏の四家*(しけ)のうち最も栄えた北家(ほっけ)の流れを汲んだ家系のひとです。
 *四家 藤原氏 四家(しけ)そして北家(ほっけ) 参照

また、徳大寺家摂関家*(せっかんけ)に次ぐ公家の名門で清華家*(せいがけ)のひとつとされます。
 *摂関家(せっかんけ)と清華家(せいがけ) 参照

徳大寺家より細川 勝元が譲り受ける。

ときは室町時代

宝徳2年(1450)、十二代目の徳大寺 公有(きんあり)より細川 勝元が山荘の地を譲り受けます。

このとき勝元は二十一歳。

勝元は若いうちから禅の教えに傾倒しました。というのも、父 持之(もちゆき)は妙心寺第七住持(じゅうじ 寺の主僧)日峰 宗舜(にっぽう そうしゅん)に帰依し、勝元は妙心寺塔頭(たっちゅう 大寺院のなかの小寺院や別坊)である養源院を日峰から継いだ義天 玄詔(ぎてん げんしょう)に帰依していました。

勝元は、義天を招いて龍安寺を創建。義天は、師である日峰を勧請開山とし、自らは創建開山となりました。

ヤーツク
ヤーツク

細川 勝元は、自身が関わった応仁の乱で龍安寺を焼失してしまうんですね。その後、子の政元が復興を果たします。

方丈と石庭 4つの見どころポイント

昭和50年に来られた英国エリザベス女王夫妻がこの石庭を絶賛したとされます。

作者・作庭の時期も不明とされるこの石庭には、その作庭意図の謎については長年にわたって論じられてきました。

その謎は別途考察することとし、ここでは方丈も含めて大きく4つの見どころポイントをご紹します。

石庭 そのもの

方丈の広縁(ひろえん)のところに座ってゆっくり眺めると、とてもいいかと思います。

いろんなところで枯山水の石庭を見慣れていると、「こんなものか」と思ってしまうかもしれませんが、眺めているうちになんとも心が鎮まる気がします。

どんな意図があってつくられたのか。別途考察したいと思います。

油土塀

石庭を取り囲んでいる屋根付きの土塀です。

屋根は杮葺(こけらぶき)で、土塀は菜種油もち米の研ぎ汁などを入れて練った土が使われており、普通の土塀よりも強固耐水性に優れ、また白砂からの照り返しも防ぐといわれています。

江戸時代 寛政9年の火災では方丈を焼失したものの、土塀への類焼はまぬがれたとのことで、室町時代から残るものとされます。

ヤーツク
ヤーツク

長い年月のなかで変化する自然の風合いがなんとも美しい土塀だなぁと思います。

方丈の襖絵

通常は、皐月 鶴翁(さつき かくおう)画伯によって昭和28年(1953)から5年がかりで描かれたという北朝鮮の金剛山や龍の図の襖絵が設えてあるとのことですが、私が行ったときは、元首相の細川 護熙(もりひろ)氏の襖絵が大公開されていました。

護熙氏は、家系をたどると勝元と同じ細川家の祖である、鎌倉時代の御家人 細川 義季(よしすえ)に繋がります。

ヤーツク
ヤーツク

さぞご先祖様にとっても感慨深いことでしょう。

吾唯足知の蹲踞(つくばい)

方丈を裏手に回っていくと、裏庭のほうにこの蹲踞(つくばい 手洗鉢(ちょうずばち))があります。

徳川 光圀(みつくに)より贈られたものといわれています。

ただ、案内札によれば、これは実物大の模型とされており、本物はお茶室の蔵六庵(ぞうろくあん)にあるということで、別料金(但しお二人以上でおひとり300円)でお茶室と蹲踞がご覧になれるとのことです(R7.5.24現在)。

吾れ唯(ただ)足ることを知る

お釈迦様が涅槃に入る直前に残した教えである佛遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)のなかに、

知足の者は貧しと雖も(いえども)富めり
不知足の者は富めりと雖も貧し

とあります。

ヤーツク
ヤーツク

わかっているつもりなんですけどねぇ。

龍安寺 開山堂に義天の像は無いというお話。

仏殿*の裏手にある昭堂(しょうどう)は開山堂とも呼ばれますが、ご本尊の釈迦如来坐像と、開基 細川 勝元像、勧請開山の日峰 宗舜像が安置されています。
 *仏殿は一般には非公開。天皇や歴代住職の位牌が安置されており、また檀家のための法要を行う場となっています。

創建開山の義天 玄詔の像はなく、位牌だけが安置されています。

開山堂なのに義天の像がないのは、師である日峰に遠慮して自身の像をつくることを許さなかったためといわれています。

義天は龍安寺を開山したあとの享徳(きょうとく)元年(1452)に関山 慧玄(かんざん えげん)派の臨済宗寺院ではじめて紫衣(しえ)を勅許されました。

紫衣は天皇から高僧に与えられる法衣であり、それまでは京都五山の各寺からは格下と見做されていた妙心寺龍安寺にとっては画期的な出来事となり、京都五山と肩を並べるまでになったといわれます。

ただ、師としてきた日峰が生前に黒衣(こくえ)しか許されなかったことに配慮したものだと考えられています。

そのほか境内の見どころ

山門

境内への入り口の門です。

江戸中期に再建されました。

紅葉の時期などはこの門を通して映る紅葉が格別に綺麗です。

鏡容池(きょうようち)

これは普通のカモ

徳大寺の山荘時代の名残とされる池で、俗に「おしどり池」と呼ばれており、その名の通り昔はおしどりが群れをなして集まってきたといいます。

悲しい話も伝わっています。

あるとき、猟師が来てまさにおしどり夫婦だったうちの雌のほうを撃ったところ、残された雄のおしどりが悲嘆に暮れ、飛び回って方丈の裏に落ち、死んでしまいました。

里の人が哀れに思い、二羽の骸をそこに埋めて「おしどりの社」を建てました。 以来、この山に茂る木はいつのまにか二本が交差してはなれなくなる「連理木(れんりぎ、れんりぼく)」となったそうです。

龍安寺垣(りょうあんじがき)

参道には龍安寺垣と呼ばれる竹で組んだ垣があり目を引きます。

特に庫裏へと上る階段の脇に長く続く龍安寺垣は見ごたえがあります。

透かしを菱形に組むことで曲がった道にも対応しやすく、長く組めるそうです。

庫裏(くり)

江戸時代に再建されたもので、本来、寺の台所という意味ですが、今は拝観者の玄関となっています。

ヤーツク
ヤーツク

白壁のうえに木を組んだデザインが美しい。

その他 境内のみどころ

境内は広いです。

ゆっくり回るといろいろ発見できるかと思います。

僕は石が目につきました。貴重と思われる石がたくさんあります。

ヤーツク
ヤーツク

石好きな方にはおすすめのお寺です。

<参考文献>
・「古寺巡礼京都 33 龍安寺」淡交社 2009
・「謎深き庭 龍安寺石庭」細野 透 淡交社 2015

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