愛宕神社(あたごじんじゃ)*基本* 総本社 山の上の火伏せの神様。-京都 右京区-

愛宕神社

2025.4.26

もろに山の上の神社です。標高924mです。

山の名前も愛宕山(あたごさん)といいまして、市内のとくに右京区の子供たちは小・中学校から高校に至るまで、学校行事で登らされる山です。

なかなか険しい山ですが、登ったら達成感の大きい山でもあります。

全国で約900社あるといわれる愛宕神社の総本社です。

歴史もあり、なかなか面白い逸話もあるので、順にご紹介いたします。

愛宕神社(あたごじんじゃ)※阿多古神社とも。
御祭神  本社:稚産日命(わくむすびのみこと)、
     埴山姫命(はにやまひめのみこと)、
     伊弉冉尊(いざなみのみこと)、
     天熊人命(あめのくまひとのみこと)、
     豊受姫命(とようけひめのみこと)
     若宮:雷神(らいじん)、
     迦俱槌命(かぐつちのみこと)、
     破无神(はむのかみ)
     奥宮:大国主命(おおくにぬしのみこと)以下17柱
所在地  京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
創建   大宝1年(701)から4年(704)
主な祭事 嵯峨祭(野々宮神社と合同) 千日詣

愛宕神社 役行者(えんのぎょうじゃ)たちの不思議な由緒。

江戸時代に書かれたという「愛宕山神道縁起(あたごやましんとうえんぎ)」の「古縁起」や「山城名勝誌(やましろめいしょうし)」の「白雲寺」の項に愛宕山の由来や縁起が書かれているといいます。

ここでは書籍などに要約されているものを大いに参考にしながら、国文学研究資料館の国書データベースに掲載されている愛宕山神道縁起の漢文に見える言葉を拾いつつ、訳してみようと思います。

王城(都)の西山に、嵯峨の地で最も高い「愛宕山」という、実に霊地といえる山がありました。

その昔、文武天皇の時代。大宝年間(701~704)に役小角(えんのおづぬ 役行者)がこの山に登りたいと思い、その頃嵯峨の奥に住んでいた雲遍上人(うんぺんしょうにん のちの泰澄)を同行させて清瀧(きよたき 愛宕山表参道の麓)に来ました。

すると瀧の上に雲が起こり、山の下で雷が鳴り、雨が車軸のように(大雨のこと。雨脚が車の心棒のように太いさま)降りだして、進むことができなくなりました。

二人が秘咒密言(密教の真言)を唱え祈祷すると俄かに天は晴れ上がりました。

しばらくすると、地蔵龍樹*、冨楼那*、毘沙門*、愛染*の五仏が現れ光を放ち、大杉のところには、天竺(てんじく インド)の日良*、唐土(もろこし 中国)の善界*、日本の太郎坊がその眷属(けんぞく)である九臆四万余りもの天狗を率いて現れました。

彼らが二人に言うには、我等はこの先二千年この霊山上に仏の付属を受けて大魔王となってこの山を領し、群生(ぐんじょう すべての生き物)に益をもたらす、といい終わって消えていきました。

二人はこれにより、杉の木のところを清瀧四所明神と呼び、瀧の上には千手大士(千手観音)を安置し、朝日峰(あさひのみね)、大鷲峰(おおわしのみね)、高雄山(たかおやま)、龍上山(りゅうかみやま)、賀魔蔵山(かまくらやま)の五岳を置きました。

小角は具状を以って朝廷に訴え、許しを得て朝日峰に神廟(しんびょう 神を祭る御霊屋(みたまや))を建て、香燈は絶やさず、また雲遍は泰澄(たいちょう)と名を改め、開山第一の祖としました。

光仁天皇(こうにんてんのう)が即位したのちは、慶俊僧都(けいしゅんそうず)がこの山を中興し、和気清麻呂(わけのきよまろ)が朝日峰に白雲寺(はくうんじ)、大鷲峰に月輪寺(げつりんじ)、高雄山に神願寺(しんがんじ)、龍上山に日輪寺(にちりんじ)、賀魔蔵山に伝法寺(でんぽうじ)の五寺を建て、ほか五千坊を営みました。

桓武天皇の頃には、岩(宕?)の字を護に改めて「愛宕護山大権現」と号して鎮護国家の道場としました。

*補足
龍樹(りゅうじゅ)インドの大乗仏教を確立したナーガールジュナという大思想家。「空」の立場から仏教の根本思想を組織的に体系づけた最初の人。
冨楼那(ふるな)釈迦十大弟子の一人。弁舌がたくみで説法第一といわれた。
毘沙門(びしゃもん)毘沙門天を参照。
愛染(あいぜん)愛染明王を参照。
日良(にちら)日羅とも。天竺(インド)の大天狗。
善界(ぜんかい)是界坊とも。唐(中国)の大天狗。「今昔物語」「是界坊絵巻」や能の「善界」などに登場。

愛宕護山大権現の宕が護に置きかわるのかなと思ったのですが、そのまま書かせてもらいました。

しかし、9億4万余りの天狗とは。なにか数字に意味があるのかわかりませんが、とても興味深い縁起ですね。

愛宕神社 天狗の太郎坊

太郎坊という大天狗が9億4万あまりもの天狗を率いて現れたとありましたが、そのことから五岳を置き朝日峰に神廟を建てて山を鎮めるということをしたとあります。

天狗はその頃、世を乱すものとされていたようです。大火や災いなどは天狗の仕業とされたり、怨みや呪詛を持つ人が天狗になったりという話が多かったようです。

古事談(こじだん)」という説話集によると、白河天皇(しらかわてんのう)の皇子である近衛天皇(このえてんのう)は若くして亡くなったのですが、それは愛宕山にある天狗の像の目に釘を挿して呪詛(じゅそ)されたためだとされました。その呪詛を行ったのは時の関白である藤原 忠実(ただざね)だとして、彼は関白の任を解かれて宇治に謹慎することとなりました。

忠実の子頼長(よりなが)が書いた日記「台記(だいき)」にもそのことが書かれており、「愛宕山に天狗がいることは知っているが、天狗の像があるのは知らなかった」と弁明しているそうです。

これなんかは、天狗伝説を利用した政局とでもいうのでしょうか。

どちらかというと普通の人間のなかにとんでもない天狗がいそうな気がします。

また、天狗というのは修験者のことだともされます。愛宕山伏と呼ばれる多くの修験者が滝に打たれたり断崖を駆け巡って霊能力を身につけたといいます。

源平盛衰記(げんぺいせいすいき)」には、安元(あんげん)3年(1177)に起きた安元の大火(京都の半分を焼き尽くした)は陰陽師(おんみょうじ)により愛宕の天狗のしわざとされ、「太郎焼亡(たろうしょうぼう)」とも呼ばれます。

これらは、愛宕の修験者たちの勢力を示すものとも捉えられています。

こうして愛宕の大天狗太郎坊は様々な逸話に登場し、また能や狂言などにも取り入れられるようになり、やがては愛宕の祭神として奥院に祀られました。

愛宕山は、七高山*(しちこうざん)または修験道七高山のひとつであり、修験者にとっては今に至るまで大切な霊山であると言えます。
 *七高山 比叡山・比良山・伊吹山・愛宕山・神峰山(かぶせん)・金峰山(きんぷせん)・葛城山または高野山

愛宕神社 本地仏の勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)。明智 光秀も参拝。

中世になり神仏習合(しんぶつしゅうごう)が進むと、愛宕大権現本地仏勝軍地蔵として祀るようになり、特に戦国武将の間で崇拝されることとなります。

勝軍地蔵は、甲冑を身にまとい、右手に剣を持って白馬に跨る姿の像です。

ただ、明治の神仏分離令により白雲寺は破却勝軍地蔵は金蔵寺*へ移されています。
 *金蔵寺についてはこちらを参照。

ちなみにかの明智 光秀(あけち みつひで)も本能寺の変の数日前に愛宕山に上り、勝軍地蔵を参拝しています。

明智 光秀の愛宕大権現参拝
天正10年(1582)5月26日に近江坂本城を出て丹波亀山城に入る。
  ↓
翌5月27日に亀山城を出発し、いわゆる「明智越え」というルートを通って水尾へ出て、そこから愛宕山に登って愛宕大権現を参拝
このとき、おみくじを二度三度と引いたとされる。
その夜に愛宕の五坊のひとつ、威徳院(いとくいん)で連歌の会を催す。

光秀の発句(ほっく)の
 「ときは今あめか下しる五月哉
は有名。

  ↓
6月2日未明。本能寺で信長を襲撃。

光秀の句の書き方がいろいろありますが、多くは
「時は今 天が下しる 五月哉」
と、天下を取ることを示唆したとされていますが、亀岡市文化資料館のサイトで掲載されている「信長記」(岡山大学附属図書館所蔵)の原文を見ると、
・「時は」→「ときは」とひらがな
・「雨が」または「天が」→「あめか」とひらがな
となっているようです。

土岐(光秀は土岐氏の流れ)、をかけているされますが、「ときは今」というところにある種の決意を感じないではいられません。

愛宕神社 もともとのご祭神。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)前の様子。

現在のご祭神は冒頭に示した形となっておりますが、もともとはどうだったのか、詳しく見ていきたいと思います。

江戸時代 明和4年(1767)から翌年にかけて記録された「京師順見記(けいしじゅんけんき)」によれば、本殿の中央に勝軍地蔵尊、左に不動明王、右に毘沙門天が祀られていたとあります。

今の若宮にあたる後殿のほうでは、中央に太郎坊、左に役小角(役行者)、右に宍戸 司箭*(ししど しせん)が祀られていました。
*宍戸 司箭 戦国時代の武将であり山伏。愛宕山で修行し飛行の技を修得したとされる。宍戸 家俊(いえとし)、司箭院 興仙(しせんいん こうせん)。

また当時のガイドブックである「都名所図会(みやこめいしょずえ)」には阿太子(愛宕)山権現の祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、火産霊尊(ほむすびのみこと)であり、将軍(勝軍)地蔵として祀られ、帝都の守護神として火災を永く退けてこられました、と紹介されています。

愛宕大権現は、戦国時代には戦に勝つための神として多くの武将の信仰を集めましたが、江戸時代には、火伏せの神として信仰されていたことがわかります。

愛宕神社 火伏せの神へ。千日詣りと三歳詣り。

江戸時代の京都で起きた大火というと、宝永5年(1708)の宝永の大火、享保15年(1730)の享保の大火、天明8年(1788)の天明の大火が有名で、特に天明の大火で京都市街のほとんどを焼き尽くしたといわれます。

また、普段からも火事の発生は多く、「世の恐れのなかでなお恐ろしいのは火の難」とされていろいろと防火に取り組むほか、愛宕への信仰が広がったとされます。

町のいたるところに「愛宕の本地にして火伏せなるべし」と石地蔵を置いて、人々が拝んだりもしました。

火事が起きた時にも、大事に至らなかったらお礼のために、あるいはせっかくご加護をいただいたのに不注意で火事を起こしてしまったことこをお詫びするためにと、愛宕参りをしたそうです。

それぞれの町では、例えば火事が起こった家から二間以内の家々は延焼を防ぐために壊すこととし、その際家主は文句を言ってはならず、あとで町で家をもとに戻すといったことが取り決められたりしました。

また、愛宕講*(あたごこう)といって、特に火事を起こした町では毎月日を決めて、特に地蔵尊の縁日である二十四日かその前日に交代で愛宕参りをするということも多くの地域で行われました。
* 神社・仏閣への参詣や寄進などをする信者の団体。伊勢講、富士講など。

こうして全国へと愛宕信仰が広がっていき、
 「お伊勢に七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り
と歌われるようにもなりました。

千日詣りは江戸のころにはあったようで、もともとは六月二十四日にお詣りすると一度で千度にあたるとされました。

現在は七月三十一日から翌日にかけて千日詣りが行われています。

また、三歳までにお詣りすると、その子は一生火の難をまぬがれるとされており、ときどき小さな子供を抱いたりおぶったりしながら登る親子の姿が見られます。

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