金蔵寺(こんぞうじ)*基本* 向日明神、愛宕大権現との関係も。-京都 西京区-

金蔵寺

2025.3.20

訪れる人も少なくとても静かな境内ですが、標高約350mにある山寺なので、そうそう来れるものではありません。

駐車場もあるのですが、道が狭くて対向車をかわすには苦労するのでおすすめしません。

小塩山などのハイキングコースになっているので、登山装備で山歩きがてら立ち寄るのが一番かと思います。
 *参考→小塩山(おしおやま) 淳和天皇陵~金蔵寺~大原野神社 -京都 西京区-

奥の樹木は桂昌院お手植えとされるしだれ桜です。

寺名  西岩倉山 金蔵寺
宗派  天台宗延暦寺派
山号  西岩倉山(にしいわくらざん)
所在  京都府京都市西京区大原野南春日町1639
本尊  十一面千手観世音菩薩
開山  養老2年(718) 隆豊禅師(りゅうほうぜんじ)
開基  元正天皇(げんしょうてんのう)
札所  洛西三十三観音霊場二番

金蔵寺に愛宕大権現は愛宕山から来られた。

愛宕大権現様がこのお寺に祀られるようになったいきさつが境内の立札に書いてありました。

味のある文体なので、そのままご紹介します。

勝運の仏
世に愛宕大権現というは、今より一千三百年ほど以前に役の小角(えんのおづぬ 修験道の開祖)が清滝において不動明王、毘沙門天をはじめ九万八千の夜叉をひきいて出現されしを霊感により感得せり。これをそのまま御像に彫刻して愛宕山にお祀りせるものなり。
以来、火防と勝負の守護仏として信仰篤く、特に武将の深く信仰するところとなり、出陣の際には愛宕山に戦勝運を祈願せる例が数多く今日までつたえられているところが、明治三年に至り、神仏分離の法令により愛宕大権現は縁故深き当金蔵寺に愛宕山よりお遷りになられました。
愛宕大権現の御本願は悪魔を征し、火難より守り、一切衆生を済度し、心に燃ゆる煩悩強盛の業火も広大無辺の誓願により清く消火され、その身は悟りの境地に、勝運福徳長寿の楽果を得ること夢々疑いなし。

御詠歌
前は神 うしろは地蔵大菩薩 火防を守る愛宕大権現

この事実だけでも、このお寺が大変に重要なところであることがわかります。

年に一度、愛宕大権現様がご開帳されるとのことです。

愛宕権現イザナミ垂迹(仮の神の姿)で本地仏地蔵菩薩とされています。愛宕大権現は勝軍地蔵が馬に跨った姿です。ぜひ機会があればこの目で見てみたいものです。

金蔵寺の成り立ちには向日明神が関わっていた!?

「金蔵寺略縁起」によれば、およそ次のようなお話が伝わっているそうです。

細かい部分はほかの説がありますが、ここでは「大原野郷土誌読本 上巻 金蔵寺縁起」 をもとにしています。要約するに当たり多少表現を変えておりますが内容は同じです。

むかしむかし、姥射山(うばいさん)という山に向日明神と称する神様が住んでいました。ある日のこと、明神様は弓矢を持って何か獲物を探しておりました。すると一頭の金色の鹿が飛んできたので、すかさず矢を放ったところ、見事に命中!したと思われました。ところがそこに鹿の姿はなく、一本の大きな樟(くすのき)の幹に矢が刺さっておりました。明神様が矢を引き抜こうとすると、木のなかからお経を唱えるような声が聞こえてきました。
「これはきっと霊木に違いない」と明神様は思いました。

一方、大和の国に薩摩生まれの隆豊禅師というお坊様がおりました。ある夜、「浄地を求めて仏堂を建てよ」という霊夢を見ました。それで禅師は山から山へと分け入り、ふさわしい地を探しておりましたが、西方の山に入ったとき、弓矢を持った老翁に出会いました。

「わしは向日明神というものだ。よく来てくれた。ぜひお前に見せたいものがあるからついておいで」
禅師があとについていくと、一本の樟の大木のところへ来ました。禅師はその木をひと目見て奇異の感に打たれてしまいました。向日明神はこの木を刻んで二人して立派な仏像を造ろうというのでした。

そうして二人は大木を切り倒し、研ぎ澄ました天狗の爪で一心に像を刻み、ついに六尺二寸の見事な千手観音をつくりあげました。向日明神は禅師に言いました。
「一刻もはやくこの観世音を本尊としてこの地に伽藍を営みなさい。そうすれば私はいつまでもこの寺の守護神となるであろう」

禅師は直ちに伽藍の建立に着手し、またたく間に木の香も新しい御堂ができました。伽藍の完成を見て安心した向日明神は言いました。
「もうこのお山にも用はなくなった。これから三本の矢を射て、一番遠くへ飛んだところに宮を建てて住もうと思う」

第一の矢は今の大歳神社の森に、第二の矢は乙訓村井ノ内の角の宮に、最後の矢は遠く勝山に落ちました。禅師は別れを惜しみました。
「さらばじゃ」
向日明神は鳥のように飛び立っていきました。

こうして勝山に下りられた向日明神は、その後向神社の祭神として祀られ、長く当山を守護されることになりました。

金蔵寺には桂昌院が再建した聖武天皇の経塚の石碑がある。

本堂の東側に立っているこの立派な石碑には、聖武天皇が五部大乗経を納めたとのことが書かれています。そのほかよく読み取れませんが、後半に桂昌院がご建立されたものとのことも記されているようです。

天平元年(729)、聖武天皇は国土平穏の祈願のため華厳、普門品(ふもんぼん 法華経第25品「観世音菩薩普門品」の略称。観音経)などを書写して諸国の名山霊地に埋められました。そのひとつがこの地だとされています。

近年、この経塚をさらに守るべく下の川弁財天の宮が建てられています。

金蔵寺は桓武天皇にも認められた。

聖武天皇のあと、桓武天皇は平安遷都に当たって、王城鎮護のため都の四方に石倉(いわくら)をつくり、法華経を奉納したとされています。

金蔵寺もそのひとつとして選ばれ、「西岩倉山」の山号を賜わったと伝えられています。

本堂

と、簡単に紹介されているのですが、その当時、寺院として認められるというのは大変なことだったようです。

というのも、桓武天皇は私寺造営を厳しく禁じていたからです。

桓武天皇は、即位後二年にしてまず私寺の造営を禁じる勅を下し、以後、寺院・僧尼を厳重に取締る法令を三十数回も出した。このことは、天皇が奈良末期にきざした仏教のさまざまな弊害を反省して、その排除を治世の最高の方針としていたことを雄弁に物語っているといえよう。
 (「鞍馬寺」 中野 玄三 著 中央公論美術出版 2003)

さて、桓武天皇の経塚がどこなのか、お経がどこにあるのかはいろいろ調べましたがよくわかりませんでした。

わからないからこそ誰にも荒らされず、今でもしっかり京の都が守られていると考えた方がいいかもしれません。
(ご住職に聞いたらあっさり答えてくれたりして…。)

金蔵寺には桂昌院を祭る石塔がある。

桂昌院は、応仁の乱以降に荒れ果てたままだった大原野の数々の寺院の修復を援助したことで有名な方です。

*メモ*
桂昌院(けいしょういん) 江戸時代 京都生まれ。3代将軍 徳川家光の側室、5代将軍 徳川綱吉の実母。出自は不明だが八百屋の娘とする「お玉」説が有名。幼少期は乙訓に住んだとも言われる。母が二条関白家の家臣である本庄家に後妻として迎えられ、その縁で養女となる。将軍家光の側室 お万の方に仕え大奥に上がったが、家光の世話をするうちに家光に見初められ、綱吉を生んだとされる。綱吉に跡継ぎとなる男児が生まれず、手を尽くす。悪法とされる「生類憐みの令」を出させたともいわれる。仏教への帰依が深く、京都では数々の荒廃した寺院の再建に尽力した。

開山堂

金蔵寺のほぼすべての建造物は桂昌院の寄進により再建されました(その後、一部焼失して再び再建したものもあったようですが…)。

この開山堂は桂昌院再建のまま現存するようで、札には、

「開山隆豊禅師行善大和尚と歴代の祖師先徳をお祀りしてあります。総欅(けやき)造りにして当山で最も立派なお堂で宝永二年桂昌院尼公の建立です」

とあります。

少し登ったところにひっそりと御廟所があります。

金蔵寺本堂から東のほうに長嘯亭(ちょうしょうてい)という面白い小堂がある。

聖武天皇の経塚碑を過ぎて東に向かうと見晴らし台があり、そこに長嘯亭といういい雰囲気の小さな建物があります。

風流人の木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)がしばしば訪れていたといいます。

*メモ*
長嘯子(ちょうしょうし) 安土桃山時代~江戸時代の武将で、本名は木下 勝俊(きのした かつとし)。父の木下 家定は秀吉の正室 高台院(北政所 おね)の兄。小早川 秀秋とは異母兄弟。関ケ原の戦いで東軍として伏見城の留守役についたが、敵前逃亡したことで所領を没収され、名を木下 長嘯子と改めて隠棲。晩年は大原野の勝持寺に移住し、多くの優れた和歌を遺した。

窓は大きく開いていて中が見れるようになっています。

古びていますが、見晴らしのいい贅沢な場所にある別荘といった感じでしょうか。素敵です。

金蔵寺にはほかにも向日神社とつながる言い伝えがある。

この護摩堂の裏側へ回っていくと(いやまぁ犬にわんわん吠えられましたが…)、石井(いわい)という泉があります。

別名「雲生水(うんじょうすい)」とも呼ばれ、今も湧き出ているようです。

この石井の上には石井神社があったのですが、麓の坂本部落にある山王社昭和28年(1953)に合祀され、遷されたということです。

もともと石井神社はこの石井の泉を神格化した磐裂神(いわさくのかみ)を祭り、大原野地域でも最も古い神社の一つだったそうです。この神社の別当寺(神宮寺)として金蔵寺が建てられたとする説もあるようです。

この石井の泉、なんと向日神社増井の井戸に繋がっているという話もあるようです。

かつて、石井の水を汲み替えると数日して増井の水が濁ったという。
 (サイト「京都風光(京都寺社案内) 」金蔵寺・小塩山 (京都市西京区)より)

また、金蔵寺仁王門から西へ200mほどのところ(車道脇)に「産の滝」と呼ばれる滝があります。

ここが向日明神の出現の地と伝えられています。

とてもきれいな滝で、周りの岩々もいい雰囲気で清々しい気持ちになれます。

金蔵寺 そのほか史跡、もろもろ。

まずは仁王門の金剛力士像です。下から失礼して撮りました。迫力ありますね。

本堂前の狛犬も見ごたえあり。

この上に三社あります。

左から「山王権現 十三仏堂」「荒神 歓喜天堂」「向日明神 地蔵堂」とあります。

桂昌院御廟所より下の方には葉山神社があります。

「桂昌院の霊告に静岡富士浅間の木花咲弥姫(このはなさくやひめ)大神を勧請し…」と説明にありました。
 本殿 木花咲弥姫大神
 右殿 当山全自然神霊
 左殿 桂昌院御魂
を祀られています。

しかし、たぬきさん多いなぁ。

本殿もだいぶ傷んできているようです。

え?Canonって。

馬酔木(あせび)がきれいに咲いておりました。

休憩所にたくさんのまねき猫が飾ってありましたので、「たくさん幸運とお金が舞い込みますように」と手を合わせると、こんなふうに答えが返ってきた気がしました。

「いや、その前にもっと来てよ。紅葉のときだけじゃなくってさ。これじゃ人まねき猫になっちゃうよ。人っこおいでーって。来てくれたらさ、きっと幸運を招いてあげるから」

<主な歴史>
養老2年(718)  元正天皇の勅願により隆豊禅師が法相宗の寺としてひらく。
天平元年(729)  聖武天皇は国土平穏の祈願のため華厳普門品(ふもんぼん 法華経第25品「観世音菩薩普門品」の略称。観音経)などを書写して埋経。
平安遷都(794)頃 桓武天皇が都の鎮護のため四方に法華経を埋経。うち西に当たる金蔵寺の山号を北の岩倉にちなみ西岩倉山にしたとされる。
天徳2年(958)  叡山の賀登僧正が復興に力を入れてから天台宗に。
応仁の乱以降    火災などにより荒廃。
貞享4年(1687)~宝永2年(1705)
          徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院により復興。
明治3年(1870) 神仏分離令により愛宕大権現が愛宕山より金蔵寺に遷される。

コメント

タイトルとURLをコピーしました