2024.11.10日
法然上人(ほうねんしょうにん)が開祖となる浄土宗。
その総本山である知恩院(ちおんいん)で普段は非公開の「国宝三門楼上(さんもんろうじょう)」「大方丈(おおほうじょう)・小方丈(こほうじょう)・方丈庭園」が特別公開中だというので、その最終日に行ってきました。

知恩院 まずは御影堂(みえいどう)へお参り。
さて、男坂を上がると左手に御影堂が見えてきます。
三門とともに国宝に指定されています。

なんにしても御影堂にはお参りすべきかなぁと向かっていきますと、みなさんこの御影堂の前にそびえ立つ大きな柱に触れておられます。
令和6年は浄土宗開宗850年に当たるそうで、この巨大な塔の上に五色の綱が括りつけられ、御影堂の中に安置されている法然上人の御手に繋がっているとのこと。
ご縁ご利益があるとのことで僕も宝塔を撫でさせてもらいました。
「念仏結縁綱(ねんぶつけちえんづな)・念仏結縁柱(ねんぶつけちえんばしら)」
元祖法然上人が御手に執られた五色の糸は、念仏結縁綱となって御影堂前の念仏結縁柱と結ばれています。念仏結縁柱は地上7m、幅36cmの巨大な一本の角塔婆(かくとうば 五輪角塔婆の略。五輪は地・水・火・風・空を表す)です。ぜひこの念仏結縁柱に触れて、法然上人と良きご縁を結んで頂きますよう…。(結縁期間:令和6年3月13日から令和7年3月末)
(説明板より)
御影堂のご本尊は法然上人です。
「みえいどう」と書きますが、みなさん「みえどう」と呼んでますね。
門徒の方は「ごえいどう」と読むことから「ごえどう」とおっしゃるとか。
知恩院HP(ホームページ)では、伽藍のなかで最も大きいお堂であることから俗に「大殿(だいでん)」とも呼ぶそうです。
御影堂(みえいどう):仏教寺院で、開山・宗祖などの御影を祭る堂。
(デジタル大辞林)
なかに入ると、広い空間がひらけていました。
知恩院HPによれば、一枚もの畳673枚と半畳5枚が敷かれているとのことです。
お賽銭を入れて正座、合掌してから、法然上人の御影のほうを見ましたが、遠いためによく見えませんでした。
ただ、外からの五色の綱は空中を伝って法然上人の手元まで降りてきていましたので、きっと御手にとっておられましょう。
向かって左の方ではお坊さんがずっとお念仏を唱えています。
とても落ち着きます。
法然上人を取り囲む装飾物はそのほとんどに金箔が施されていてキラキラです。
特に左右の天井から釣られている「南無阿弥陀仏」と書かれた金色の柱のようなものは圧巻で、よくこんな大きなものが釣られたままになっているなぁと思いました。幢幡(どうばん)というものだそう。
幢幡(どうばん):仏堂に飾る旗。竿柱(さおばしら)に、長い帛(はく 絹布のこと)を垂れ下げたもの。
(デジタル大辞林)
幢幡:仏堂に飾る幡のことです。竿柱に、金箔を押した木製の幡が六角に吊られています。御影堂の幢幡は大修理の際に新調され、長さ6m20㎝、重さ約400㎏と、世界最大級のものとなりました。
(知恩院HPより)
知恩院-御影堂 忘れ傘や落とし金の装飾
知恩院といえば「左甚五郎の忘れ傘」が有名ですが、学生の頃、これを聞いた僕は「ひだりじんごろう」という名前と傘から連想して、傘回しの芸人さんだと思ってしまいました。

外の廊下に出てお堂に向かって右のほうの天井に忘れ傘の柄の部分が見えるとされていますが、肉眼ではどうしても金網がじゃまになって見えにくいです。

左甚五郎(ひだりじんごろう):江戸初期の伝説的名工。宮大工の棟梁、宮彫の名人として名をはせ、日光東照宮、上野寛永寺等の造営に従事した、などといわれ、東照宮の眠り猫、上野東照宮の竜などの作者とされる。逸話も多く講談、歌舞伎、落語などに取り上げられているが、確実な史料はない。
(百科事典マイペディア より)
「忘れ傘」は知恩院七不思議のひとつ。
魔性をさえぎる力があるとされた傘を魔除けとして左甚五郎が置いていったという説のほかに、もうひとつ伝説があるようです。
寛永10(1633)年に御影堂が火災で焼失、霊巖(れいがん)上人が徳川家光公に願い出て再建をするなかでのお話。
御影堂が八分ほどできた頃、落慶式の前あたりから霊巖上人が毎日説教をしていると、おかっぱの童子が聴きにきていた。
ある大雨の日も説教を聞いたあと、ずぶ濡れになりながら帰途に就く童子を霊巖(れいがん)上人が呼び止めた。
「毎日あなたは説教を聴きに来なさるが、何処のお方かえ?」
「実は私は狐でございます。此処に永らく住んでおりましたが、その住処をこわされてこのお堂が建てられたのです。どんなに怨んだか知れません。しかしお説教を聴くにつれ、怨む気持ちはなくなって、なんとかこのお堂は守らねばならないと思うようになりました」
霊巖上人は気の毒がって、唐傘を渡してやった。
翌朝、その唐傘が御影堂の大庇に差し込まれているのが見つかった。
霊巖上人は勢至堂裏の墓地の北端にお堂を建て、濡れていった童子を偲んで、「濡髪堂(ぬれがみどう)」と名付けた。
たちまちお堂はお稲荷さんとして大繁盛。濡れるということからか、縁結びの神と崇められるようになった。
(「知恩院物語」 田中 緑紅 著 ㈱三人社 2018 要約)
この「濡髪祠(ぬれがみのほこら)」は実際に知恩院のお墓があるところにあるんですね。
あるってことは、やはり実際にこの逸話のようなことがあったということでしょう。
ふしぎだなぁと思います。
知恩院HPでは、「濡髪大明神」として祀っているとのことです。
もともとは火災除けの神様としてお祀りされていましたが、「濡髪」が艶やかな女性の姿をイメージさせることから、祇園町のきれいどころの信仰を集め、今日では縁結びの神様「濡髪さん」として親しまれています。
(知恩院HPより)
縁結びの神様になったいきさつとして田中 緑紅氏の著書では、「濡れる」というのが男女の情事を表すことから縁結びとなったと書かれていますが、公式HPでそのまま紹介するのは難しいだろうと思われます。「濡髪」が艶やかな女性のイメージ…祇園町のきれいどころ…。いささか男性目線の強い表現にも思いますが、うまいなぁって思いました。
もともとは火災から護るという思いを託してお祀りしたとあるので、いかに火に注意していたかということがうかがえます。
知恩院-御影堂 大扉の落とし金装飾に託された「火除け」の思い。
知恩院は寛永10年(1633)の火災により勢至堂、経蔵、三門以外を焼失しました。
霊巖上人の申し出により三代将軍徳川家光公が再建の命を発し、御影堂をはじめ大・小方丈、唐門などの伽藍が復旧し現在に至ります。
忘れ傘の逸話から火災は起きていないので、左甚五郎さんあるいは濡髪大明神のおかげだと考えていいかと思います。
さて、御影堂の廊下からお堂への出入り口には大きな扉があって、それを固定するための頑丈な金具も設えてあります。
その落とし金の部分には、同じ金属で精巧につくられた蝉や亀、申などがくっついています。

このあとの大方丈・小方丈のところでガイドさんが説明してくれましたが、蝉は「蝉時雨」と連想でき、水に関係することで火除けの思いが込められているとのことでした。

知らないとほとんど見過ごしてしまうと思いますが、精巧にできていて面白いです。


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