2024.9.23月
大手口にある枡形という仕掛け空間にそれはあります。

大手見付石は3枚あります。その真ん中の石が最大のもので、
写真では左側2つしか写っていませんが、大きな木を挟んで右にもひとつあります。
この真ん中の巨大な石が最も大きく、ガイドさんによれば横幅11m、高さ5.1mで厚さがや1m20㎝程度あるらしいです。重さは推定約150トンで、重さからすれば城内で最大だそうです。
真ん中の最大のものの表面積は約29畳で城内4位。いずれも採石地は小豆島と推定される。徳川幕府再築によるもので、担当したのは、肥後熊本藩主 加藤忠広でのちに筑後久留米藩主 有馬豊氏が改築。
(案内板より要約)

ガイドさんに尋ねると、石の上部にあるのは、石を割るために楔(くさび)を打ち込んだ跡とのこと。
割りたい位置に矢(鉄の楔)を打ちこむのだが、まず鑿(のみ)と槌(つち)で矢穴(やあな)を掘る。穴の幅は矢の幅より少し狭くする。矢を打ちこんだときに、その胴が穴の両側の壁を押すようにする。穴の深さも適当でないと、打ちこんだ矢がすぐ底に当たってしまい、割れそこなったりする。ひととおり矢穴ができたらすべてに矢を入れ、掛け声もろともいっせいに玄翁(げんのう 金槌のこと)をふるって矢を打ち込む。
(「新装版・大阪城 天下一の名城」宮上 茂隆 著 草思社 2014 より要約)

次に本丸への入り口、桜門へ向かいます。おっと、門の向こうに天守閣が見えます。大阪城のレポートなのにここまで天守の姿がまったく出てきていないので申し訳なく思っていますが、私自身もここで初めて目にしたので、忠実に経過を辿った結果となっていますこと、ご理解いただければ幸いです。
桜門の名は豊臣時代以来のもので、当時二の丸に桜の馬場と呼ばれる場所があり、門付近の桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただ豊臣時代の桜門を含む本丸への入り口は現在(徳川幕府再築)よりも西にあり、入る方向も違った。門の両側の巨石は龍虎(りゅうこいし)と呼ばれ、江戸時代には雨が降ると右に龍、左に虎の姿が現れるといわれた。
(案内板より要約)

桜門を入ると、正面の巨大な一枚石が威容を放ちます。蛸石と呼ばれるものです。横幅11.7m、高さ5.5mで表面積では城内最大のものです。厚さが約75cmということでさきほどの大手見附石より薄く、推定重量も108トンと大きさの割には軽めです。いや軽いなどと表現するのはおかしいですね。100トン超えですから。

蛸石の名の由来は左側にある蛸の頭のようなシミだと言われていますが、点々にあいている穴もいい感じで蛸の足を表現しているように見えます。
徳川幕府による第2期工事で備前岡山藩主 池田忠雄が担当。備前産の花崗岩が使われる。
(案内板より要約)
これらの巨石はいったいどうやって運ばれたのか。ガイドさんによれば様々な説があるがいずれも推定の域を出ていないようです。
豊臣時代は主に生駒山麓や六甲山麓から花崗岩が切り出されたものを使ったとされています。
山で切った石は丸太や板を敷いてすべり落としたりしながらおろした。運搬に当たってはほかの大名の人夫にとられないよう大名の名や家紋を彫って印をつけるようになった。運搬方法はほかに山車や牛車、ソリも使われたと考えられる。大手門の大きな石を大勢の人夫たちにひかせたときは、お祭りさわぎで見物人の数もたいへんなものだった。
(「新装版・大阪城 天下一の名城」宮上 茂隆 著 草思社 2014 より要約)
ガイドさんはこれらのほかに、巨石を船の下に吊るして、つまり完全に水の中に入れることで浮力により全体が軽くなる状態で運んだという説も出ているようです。
その時代に英知を集めて最高の技術でなにかをすると、後の時代においても想像するのが難しいものなんだなと思いました。
これら巨石は大阪城観光の目玉といってもいいと思います。


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