豊国神社 耳塚(鼻塚)は秀吉 朝鮮出兵の負の遺跡!? -京都市東山区-

豊国神社

2024.8.12月

耳塚(みみづか)または鼻塚(はなづか)は、豊国神社の西側、すぐ近くにあります。

その由来はなんとなく知っていたので、すぐそばの耳塚公園で親子が楽しく遊んでいる姿がなんとなく場の雰囲気を和らげているような気がして、長い年月の間に地域にいい形で根付いた遺跡なんだなと感じました。

京都市の案内板より

京都市によって立てられた案内板をゆっくり読んでみました。きちんとハングル語でも書いてあるのが印象的でした。

天下統一を果たした豊臣秀吉が大陸にも支配の手をのばそうと朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)にかかわる遺跡。
戦功のしるしとして朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本に持ち帰ってこの地に埋められ、供養の儀がもたれた。
秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、いまに伝えている。
 (京都市案内板要約)

「…受難を…遺訓として、いまに伝えている」
まさにそうだろうと思いました。この遺跡を現代にも残している理由としては、戦争の悲惨さを伝えるものであるべきだし、決して「戦功」として人間の一部を持ち帰るといったことがないようにということであるべきだと思いました。

ただ「朝鮮軍民男女…」「朝鮮民衆の受難…」というところが気になりました。兵隊だけではないのでしょうか!?

…陣中日記などによると兵士・非戦闘員の区別なく殺し、その鼻をそぎとっており…(中略)…。江戸時代の朝鮮通信使一行は、この塚を見て深く心を痛めた…。
 (百科事典マイペディア 「耳塚」より抜粋)

ルイス・フロイスの「日本史」によると、秀吉は1586(天正14)年に大阪城で宣教師たちに対し、「自らの名声と権勢を後世に伝えるために」朝鮮出兵を計画したと語ったという。しかし、そのために多大の犠牲を強いられたのは日本・朝鮮の民衆であった。
(中略)朝鮮民衆の犠牲はさらに大きかった。慶長の役の従軍僧豊後臼杵(うすき)の安養寺の慶念(きょうねん)は、その「朝鮮日々記」のなかで、いたるところで修羅の巷と化し、多くの民衆が殺されたこと、人買い商人まで横行したことなどを記している。
 (「新 もういちど読む山川日本史」より)

兵士ではない民衆も殺害したとは…。

戦争はそういうものと言ってしまえばそうかもしれませんが、どうしてそうなるのかと思ってしまいます。

きっかけをつくったのは秀吉ではあっても、現場の諸侯や兵士がしたことだから、国をあげての蛮行と言わざるを得ないでしょう。

江戸時代には講和に努めたようですが、近代になっても同様なことが繰り返され、敗戦後の現代においてもまた、ヘイトスピーチなど憎しみを露わにするような動きがでていることはとても気になります。

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